女性管理職について僕が思うこと

完全に中立的にはなれないけれど…

ジェンダー論は難しい。

それは完全に中立的かつ客観的であるということはあり得ないからだ。

僕自身は男性(という性)を背負った状態で話をすることになるので、僕の意思とは別に色々な(不必要な)付帯物が纏わりついてくる。

男だから、女だから、という感情論。

個人的な経験に基づくそれぞれ固有の物語。

そして歴史と政治性。

それらを完全に排することは難しい。

でもできるだけ中立的かつ公平に書いていきたいと思っている。

それが不可能であることを承知の上で、今日はこのテーマに挑んでみることにする。

結論:ジョブディスクリプションを明確にすべき

結論から言うと、女性管理職が(今以上に)活躍する為には、ジョブディスクリプションを明確にする必要がある、と僕は考えている。

そしてそれができれば、(今以上に)女性の部下からも評価される女性管理者が増えるように感じている。

まず前者から書いていこう。

管理職の責任の範囲が不明確であるという現状

管理職になって僕が感じたことは、業務範囲が非常に不明確である、ということだ。

外資系企業であれば事情は違うのかもしれないけれど、僕が勤めているような旧型の日本企業においては、管理職の業務範囲(責任を負う範囲)というのはとても広く、かつ不明確だ。

そして「業務範囲」という言葉には勤務時間という概念も含まれる。

何か突発的なことが起これば、まずマネージャーがそれを埋めなくてはならないし、それを埋めるということが何よりも優先される。

自分のチームもそれ以外も、朝も夜も、平日も休日も、関係ない。

個人の用事なんて論外で、体調不良や家庭の事情ですら考慮されることはない(少ない)

急な休日出勤も残業も当たり前のことだ。

グレー領域の仕事は(普段はそう意識されていないとしても)全てマネージャーの仕事であり、マネージャーの責任である。

管理者は(人間性を排し)会社を最優先させなければならないのだろうか?

僕としては全く賛成できない考え方であるけれど、これが管理職の現実であると僕は思う。

そんな中で女性にも同じような働き方を求めるから無理が出るのだ。

というか、男性とか女性とか関係なく、そもそもの制度設計に無理があるのだ。

仕事なんて仕事でしかないのに、そこに人生を捧げることを求められる。

何よりも会社を最優先することが管理職の最低条件であるという古臭い考え方。

それをまず変えなくてはならない。

仕事の範囲を明確にする

その為には仕事の範囲を明確にする必要がある。

ジョブディスクリプションを定めて、度を越えた仕事に対してはNoと言える環境を整備する。

小さな子供がいたり、介護しなければならない親がいたりする場合には(それは男性も女性も関係ない)、その状況の中でできる仕事というものを先に定義しておく。

もう少し強気な言い方をするのであれば、「それでもオレを(私を)管理職として雇いたいか?」というような、ある種対等な関係で会社と話ができるようにする。

というか、会社と個人は給料というものをベースとした契約を結ぶことで、業務範囲に応じた高低の差をつけることで、キツければ(業務範囲が広いor不明確なら)高い給料を、ユルければ(業務範囲が狭いor明確なら)安い給料を払うことにすれば、そこには納得性が生まれるのではないか、と僕は考えている。

それが不明確なまま、業務範囲や責任の所在や給与や役職が性別によって異なったままだから、男女双方から不満が出るのだ。

業務委託契約、というと言葉は強くなるけれど、そのくらいの意識を持って、男女問わずパフォーマンスに応じた給与を払う、というのがとてもシンプルだし理に適っていると思う。

男性のように働くことが優れていることの証左ではない

プロスポーツ選手のように、成果が上がれば高い給料を取ればいいし、そうでなければ安い給与で我慢するしかない(というか、給与の高低なんてものは、それぞれの働き方に応じて、ライフプランに応じて、変わって然るべきで、それも人生の段階に応じて変化していくものだし、それこそが「働き方改革」なんじゃないのか?)。

そして、このディスクリプションの明確化が後者に繋がってくる。

それは現状においては「男のように働く女」というものが良しとされていると思うからだ。

男性に評価される女性、と言い換えても良いかもしれない。

現状において、女性管理職に求められているのは、「(旧時代の)男性のように働くこと」であって、異なる価値観や多様性みたいなものは二の次になっているような気がする(「女性らしさ」みたいな言葉自体が女性を差別しているような気がするのだけれど、そう言うのも差別なのだろうか)。

シンプルな成果主義を

そこにはもちろん男性至上主義みたいなものが過去からずっとあって、多数の男性が少数の女性を「評価する」というような歪な構造があったことが原因であることは理解しているつもりだ。

でも、これから求められるものはそうじゃないと僕は思っている。

それは単純に脳の構造が違うというか、性別が違うという「そのままの違い」を活かす、ということなのだろうと僕は思っている(どちらが優れているということではなく、そのままの差異をそのまま活かせばいい)。

能力の違いというのは性別を問わないものであるとは思うが、元々の違いというか、「違う」ということ自体を尊ぶ、というか。

それができるようになれば、男性から(多く)評価される女性管理者ではなく、女性からも(多く)評価される女性管理者が、「当たり前に」増えていくのだろうと僕は考えている。

もっと言うと、「性別」(ここにはたぶん人種や国籍や正社員とかそういう言葉を当てはめてもいいのだろう)を意識している時点で、そこに囚われてしまっているので、それさえも忘れてしまうような状況というか。

シンプルな成果主義。

僕が必要だと思うのはそれだ。

どんなバックグラウンドがあったとしても、その人を雇いたい、と純粋に思われること。

プロフェッショナルとしての仕事を遂行してもらえるという期待と、それに応える能力。

それに見合った処遇。

対等な業務提携関係。

そういったものが当たり前になれば、こんな議論は不要になるだろう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今回の話はとてもデリケートな話であるように考えています。

それがデリケートであるということ自体が僕には違和感があるものではあるのですが、男性である僕が女性について言及するということ自体が、「あなたは男性なので、何もわかっていない」と一刀両断されてしまう類のものなのだろう(そういう人もいるのだろう)、と僕は考えています。

そのくらいの分別はあるつもりですし、こんなことは別に僕が言う必要なんてないのでしょう(もっと傾聴するに値する人はたくさんいるはずです)。

でも、上手く言えないのですが、スポーツと違って、ビジネスには性差(というか、人種差とか、年齢差とかも)は関係ない(スポーツはどうしても肉体的な差が出てしまうので、男女が同じ土俵で競うのは現状困難でしょう)し、単純に成果によって評価をすればいい(そしてできるはず)と僕は考えています。

そう意味では公平な世界であると思うし、公平な世界にすべきだと僕は考えています。

性別に限らず、それぞれの人間には得意不得意があります。

それを上手に組み合わせて成果を上げること、それこそがビジネスには必要なことであるはずです。

シンプルに成果だけを競うこと。

成果(感情ではなく)をベースに議論ができる状態になること。

それを僕は願っています。

上手く書けた自身はありませんが、何かの議論のきっかけになれば幸いです。

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