言葉が軽い国

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硬質な言葉が増えてきた

僕の周りがそうなのか、たまたま見るメディアがそうなのか、それはわからないけれど、言葉が軽いなと思う場面が増えてきたように思う。

デジタル・コミュニケーションの普及がそこに影響を与えているのか、そうでないのか、もわからないし、こういった現象が我が国だけの傾向なのか、そうでないのか、もわからない。

でも、字面というか、センテンスをセンテンスとして扱うというか、言葉に温度を載せないというか、そういう「硬質な言葉」を扱うことが増えてきたように思っている。

そして僕はそういう傾向をネガティブに感じている。

それが今回のテーマとなる。

言葉の着地のさせ方

重箱の隅をつつくような言葉や、揚げ足を取るような言葉を恐れながら仕事をしている。

あなたはどうだろうか?

少なくとも僕は、自分の言う言葉の置き所、着地をふんわりとおさめるような使い方、にうんざりしながら働いている。

ポリティカルコレクトネス、ということだけでなく、それがどのような影響を与えるのか、不快に思う人はいないのか、を考えながら言葉を使うことは重要なことであると思う。

ただ、それが行き過ぎた結果、言葉に温度がなくなってしまった。

感情を排した言葉には魂がこもらない。

いや、そもそもビジネスというものはそういうものなのかもしれない。

そこに個人的な関係性や、文意や含意なんてものは関係なくて、あくまでもツールとして言葉を使えばいいのかもしれない。

言葉というのはツールでしかないのだから、余計なものを取っ払って、純粋なその性質だけを利用すればいいのかもしれない。

いや、でもさ。

それだけではやはりマネジメントは難しいと僕は思うのだ。

上手に話せれば良い、という考え方への違和感

これは僕が営業を長くしてきたからそう思うのかもしれない。

若手や営業初心者が勘違いしがちな点として、「上手く話せれば、成約に近づく」という考え方がある。

成約まで至らないのは自分の話し方が拙いからで、それを改善すれば成約することができる、と考える傾向がある。

営業のトレーニングメニューとして、ロールプレイングというものがあるのだけれど、これもそういう思想の派生物だ。

商談のシチュエーションを想定して、そこにおける役割(ロール)を演じる(プレイング)ことで、再現性を高めることで、スキルが上達する、とするものだ。

言葉からその人のパーソナリティが立ち現れてくるかが重要

僕は昔からこの「ロールプレイング教」に懐疑的である。

大事なのは「上手に話せるか」じゃない。

また、「コンテンツ(何を話すか)」でもないのだ。

言葉に重りをつけるというか、体温を載せるというか、そういうことこそが大事なのだ。

たどたとしくても、どもっても、つっかえても、全く問題ない。

その人らしさみたいなものを言葉に載せられるかどうかが勝敗を分けるのだ。

言葉からその人のパーソナリティが立ち現れてくるかどうか。

それが営業マンとしての出来を左右する。

言葉を空中から掴もうとする苦闘の中にパーソナリティは生じる

でも、それが理解できている人はあまり多くない(ように感じる)。

言葉自体がどうであるか、よりも、言葉を空中から掴もうとしている苦闘の中に、その人が話す意味が生じる。

そしてその苦闘具合はそれぞれに異なる。

それこそが言葉に重りをつけることに繋がるのだ。

正しい言葉と言葉狩り

「正しい言葉」はつまらない。

でも「正しい言葉」を使うのが当世流だ。

職場内での会話は尚のことである。

できるだけ表面が滑らかで、綺麗である言葉。

弱点がない言葉。

それが求められる。

マネジメントに大事なのは雑味を加えること

僕からしたら、それはスローガンというか、プロパガンダみたいに思えるのだけれど、そういうことを思う人はいないようだ。

誰からも批判が出ない言葉。

それによってマネジメントを行おうとする。

それは間違いだ。

マネジメントは工業ではない。

同じものを同じように作ることはマネジメントとは呼ばない。

そこには個性がない。

そこには創発性がない。

匂いのしないマネジメント。

そんなものはAIに任せておけばいい。

マネジメントに大事なのは「雑味」を加えることだ。

「苦味」や「えぐみ」と言ってもいいかもしれない。

出っ張りや、尖り、凸凹さ、そう言い換えてもいいかもしれない。

何を言うかではなく、誰が言うか。

それがマネジメントを強化するのだ。

及第点的なマネジメントで満足できるか?

表面的な言葉を用いたマネジメントには欠点がない代わりに、長所もない。

必然的に、成果は及第点的なものになる。

それを行っている当人はそうは思っていないと思うけれど、これは事実だ。

リスクを取らなければ、リターンはない。

ポジションを取らなければ、超過利益はない。

それが現実だ。

リスクフリー・マネジメントを超えて

言葉に個性を載せることは、責任を伴う。

それを言質として利用しようとする、下らない人間達が跋扈しているから。

でもそれができなければ、圧倒的な成果を出すことはできないし、マネジメントという仕事の本当の面白さを味わうことはできない。

それでも構わない?

まあ、それは個人の自由だ。

価値観の相違に過ぎない?

まあ、きっとそうなのだろう。

リスクフリーなマネジメントスタイル。

それはそれで一つの生き方であるのは間違いない。

でももしあなたがマネジメントにおいて、高い成果を出したいと思っているのであれば、僕はリスクを取って言葉に重りをつけることをお勧めする。

それは圧倒的に言葉が軽い人が多い国の中で、そのような生々しい言葉に飢えている人たちの熱狂的ともいえる信頼を勝ち得ることができるからだ。

そしてそのような信頼を勝ち得ることができれば、あとはイージーモードだ。

簡単にゲームを攻略できる。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

ビジネスとは希少性を制することだ、と書いたら意味が解らないでしょうか。

上手く言えないのですが、「正しい言葉」を使うマネージャーが増えたことによって、僕みたいな言葉遣いをする人への渇望のようなものを感じることがあります。

特に若い世代から。

もちろん生々しい言葉にはリスクがありますし、現代においてそのリスクはとても大きいものです。

でも反面、そこへの需要は大きいように感じています。

ヒーローを気取る訳ではないですが、率直な物言いみたいなものへの憧れ(多分彼ら世代は誰からも嫌われないことを至上としてきたのでしょう)を感じながら、彼らからの力を借りながら、これからもニッチな市場で僕は働いていくつもりです。

ご賛同頂けたら幸いです。