ジョブ型雇用になればマネジメントも楽しくなるのでは?

メンバーシップ型雇用とジョブ型雇用

普段自分が悩んでいることの大半はジョブ型雇用になれば解決するのではないか。

そんなことを思うことがある。

日本企業の大半は、まだまだメンバーシップ型雇用を取っていて、それがマネジメントにおける「やりづらさ」を生んでいるような気がしている。

メンバーシップ型雇用というのは、「採用→仕事を割り当てる」という順番で考える雇用形態、イメージとしては「総合職」であるとか「ジョブローテーション」みたいなものが付帯してくる感じだ。

ゼネラリストを養成し、会社の状況にあった部署に人を充てていく。

年功序列・職能給なんてものもここに関係してくる。

一方、ジョブ型雇用というのは、「仕事が先にある→採用」という順番で考える雇用形態、イメージとしては、「専門職」であるとか「ジョブディスクリプション」みたいなものが付帯してくる感じである。

スペシャリストを養成し、仕事単位で雇用が変化していく。

実力主義・職務給なんてものもここには関係してくるだろう。

今日はそんな話をしていく。

「ほどほどでいいか」と考える部下の存在

僕がマネジメントにおいて悩むこと、それも大きな割合を占めることは、「生産性の低い部下がいる」ということだ。

そして「それに対して僕の打つ手が限られている」ということである。

僕やその部下達は営業職で、成果給によってある程度の年収の変動はあるけれど、それでも成果を出した人とそうでない人の格差が2倍になるなんてことはなく、せいぜい2割とか3割とかの差がつくくらいである。

すると、こう考える部下が(当然のように)出てくることになる。

「まあ、ほどほどにやっておけばいいか」

やってもやらなくても処遇に大きな差がない、かつ雇用が守られているという状況であれば、「必死になって仕事をせずとも良い」と考える人は当然ながら出てくる。

そしてそのような考え方は連鎖しがちである。

コスパで考えると…

僕だって、客観的に見れば、そのような仕事のやり方の方が「コスパ」は良いのではないか、と思うくらいである。

なんというか、真面目に努力しているのが馬鹿らしいというか、見合っていないというか、そのように思うことがある。

これは何も営業職に限ったことではないだろう。

というか、営業職であれば賞与等でまだ多少の濃淡は付けられるけれど、事務職ではそうもいかないので、この傾向はより強くなるだろう。

そういう人達が累積して、日本全体を低生産性にしている。

議論はそんなに簡単なことではないのかもしれないけれど、僕の目から見るとそんな風に見えてくるのだ。

もちろん、ジョブ型雇用にすればこれらすべてが解決する、なんてことはないとは思うし、それはそれで新たな問題が生じてくるのだろう。

ただ、現状思うのは、この閉塞感を打破したい、ということだ。

もう少し具体的に言うと、解雇権は難しくとも減給権は欲しい、ということになるのかもしれない。

権利と義務

会社によってミドルマネージャーに与えられる権限(今回は人事に関する権限)は異なると思うが、僕の場合は人事権は持っていない。

もちろん意見具申という形は取れなくはないけれど、それが採用されることはごく稀(というかほとんどない)であるし、与えられた環境で結果を出せというのがデフォルトである。

その中には、上記したように「やってもやらなくても一緒でしょ?」という社員が一定数(半分以上)を占める。

更にコンプライアンスやハラスメント意識が浸透したこともあり、働いている人達の「権利」というのは「義務」よりも強い傾向がある(ように僕は感じる)。

休みは取らせなければならないし、残業はさせてはいけないし、叱り過ぎてもいけないし、まあその他諸々である。

それは守るべき当然の「権利」であるので、それについてどうこう言うことができないのはわかっているつもりである。

ただ、である。

その中でも努力し結果を出している者と、そうでない者が同じような報酬体系にあるのは僕には納得がいかないのだ(付言すれば、「グレー領域」の仕事は誰がやるのか、という問題もここにはある)。

無理ゲーではないが、ご無体ではある

これはメンバーシップ型雇用における「仕事の範囲の曖昧さ」の弊害であると思う。

ジョブ型雇用であれば、仕事の範囲を(ある程度)明確に定め、その中で求められるパフォーマンスの尺度を規定することができるはずだ。

でも現状ではそうではない。

その中でマネージャーは成果を出せと言われ続ける。

無理ゲー、というと言い過ぎであるけれど、ご無体な、とは思う。

平等よりも公平を。

僕はそんなことを考えている。

運営上の問題はあるけれど…

ジョブ型雇用を採用することで、パフォーマンスを評価の尺度とする。

それは僕が常々言っている、成果を出す、ということと同義である。

良いときは給与が増えるし、悪いときは給与が減る(もちろん一定のレンジは必要だ)。

それが資本主義社会ではないのか?

もちろんここには「成果とは何を指すのか?」であるとか、「外形的に分かりづらい仕事の成果尺度はどうするのか?」といったような、運用上詰めなければならないことはたくさんある。

公平性や透明性評価者と被評価者の納得性コミュニケーションもとても大事である。

ただ、だ(何度も言うが)。

「日本全体で一緒に沈み続けるのはもう流石にしんどいだろう?」と僕は思うのだ。

失われた30年をさらに伸ばすのか?

失われた30年、上がらない給与、相対的に貧困になっていく日本、その他諸々。

もう内部で四の五の言っている場合ではないのでは?

井の中の蛙、どんぐりの背比べ。

言葉は何でもいい。

そろそろ真剣に外を見て、豊かになる方策を考えるべきなのでは?

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

仕事は仕事である、というような割り切りが僕たちにはもう少し必要であると考えています。

というか、ある一定世代以下は既にそのように考えているのではないでしょうか?

ウェットな関係性をなくして、成果という物差しによって給与が(一定のレンジ内で)変動する、というのは、とても理にかなっていると僕は思うのですが、皆さんはどうでしょうか?

そして、そのような社員が増えれば、マネージャーの仕事も変わってくる(現在はウェットな人間関係の問題に対処することがとても多い)ような気がしています。

難しいかもしれませんが、共感頂けたら幸いです。