非を認める

うやむやにしてしまうことができなくはないけれど

6年間マネージャーやってきて、自分でも成長したと思える部分は「非を認める」ことができるようになった、という点である。

もちろん今だって合格点とは言えない。

でも、それこそ駆け出しの頃に比べれば、自分の非を認め、正直にメンバーに対して謝ることができるようになったと思う。

振り返れば、僕は「マネージャーはマネージャーらしくいなければならない」という自己幻想に囚われ過ぎていたように思う。

完璧でなければならない、という檻に自ら入っていたように思う。

当たり前の話であるが、マネージャーになった瞬間に僕が素晴らしい人間に生まれ変わる訳もなくどうしようもない自分が「それっぽく」マネージャーを演じているのに過ぎないのだ。

そしてその不完全な自分は、ミスを犯してしまう訳である。

上司と部下という立場上、それをうやむやにしてやり過ごすことができないことはない。

でもそれではいけないのだということがようやくわかってきた。

今日はそんな話だ。

僕は逃げるマネージャーだった

若くしてマネージャーになった僕は、自分の非を認めることができなかった。

もちろん最終的には自分の責任であるという自覚はあったけれど、全部が全部自分のせいではないよな、という風に思っていたし、逃げというか、責任転嫁というか、そういう狡さを持ちながら仕事をしていた。

もちろん今だってそのような傾向はある。

自分が悪いのに、それを部下のせいにしようとしてしまうことがないとは言えない。

でも、昔に比べればだいぶマシになった。

そしてそれを正直に認めることができるようになった。

小学生でもできること

多くの人にとっては、そんなことは「当たり前」で、大したことではないのかもしれない。

でも僕には大きな進歩である。

「間違えました。ごめんなさい」と正直に謝れること。

そんなのは小学生でもできることである。

でも、マネージャーというポジションについて、自信を持って戦略を進めている時に、その間違いを認めることはとても勇気がいる、と僕は思っている。

ただ、それができた先には、また新しいフィールドが拡がっている。

それにようやく気付くことができた。

責任を取る主体の不在

日本には責任を取る主体者がいない。

そのような環境が当たり前のように僕には思える(僕だけかもしれない)。

それは政治の世界でもそうだし、経済の世界でもそうだ。

「私のやり方が間違っていた。申し訳ない」と名乗り出る人は、昔はいたような記憶があるけれど、現在には殆ど存在しない。

それは意思決定の経緯にも原因があるのかもしれない。

決定者というものが存在せず、集団的な合意、いや、集団的な合意という雰囲気、によって、何となく物事が進んでいく、というのが日本社会である。

それは和を以て貴しとなすという素晴らしい文化である反面、上手くいかなかった時に、責任の所在が曖昧となり、うやむやになってしまう。

次への建設的なデータ取得であるとか、検証に繋がらないことで、折角の失敗というデータが蓄積されていかない。

それが日本社会の弱点であるように思う。

僕にできることをやる

特に現代のような、失敗をしながらバージョンアップしていくことが当たり前である、というような世界においては、それは致命的ともいえる弱点である。

ただ、僕個人のレベルで「社会」というような大きな話を嘆いていても何も変わらない。

だから、僕ができること、僕のレベルでできることをやってみようと思えるようになったのが(ささやかながら)僕の進歩である。

それはマネージャーが責任を明確にし、非を認める、ということである。

僕が間違っていた、と頭を下げることである。

マネージャーが非を認めると、心理的安全性が生まれる

チームで働いていると、口には出さないまでも、色々な不満が渦巻いている。

チームの人数が増えれば増えるほど、その不満の種類も多様になっていく。

もちろん全ての不満に対処することは不可能であるし、それに気づかない振りをしながらチームを運営していくことも可能ではある。

ただ、それでは僕が批判している日本社会の構造と何も変わらない。

だから僕は失敗を認めることにしたのだ。

そして、素直に頭を下げると、チームはまた次のレベルへ進むことができるようになる。

ピンチはチャンスと言うと、とても利己的というか、打算的な言い方になってしまうけれど、何となく皆が不満に思っていることに対して、マネージャーが「オレの責任だ。申し訳ない」ということを表明すると、「いや、それはマネージャーだけの責任じゃないよな」という空気が生まれ、マネージャーへの信頼感が増し、チームの結束感が高まる。

もちろん、これは結果論であるし、本心からそのようにマネージャーが思っていなければならない。

ただそれができるようになると、本当に事態が好転する。

皆が率直に自分の感情を表明できるようになるし、自分の領域から少し出て、チームへ貢献しよう、という思いが出てくるようになる。

それがたぶん「心理的安全性」というものなのだろう。

次の一歩へ踏み出す為に

マネージャーがそれを率先して行うということが大事である、ということがようやく僕にはわかってきた。

僕はまだまだ未熟なマネージャーである。

それでも何とかマネージャー業を続けられている。

皆さんが成果が出ず、何でウチのメンバーはもっと動いてくれないんだ、と思う時には、一度立ち止まって、自分に責任がないか、ということを洗い出して欲しい。

たぶん何らかの失敗がそこにはあるはずである。

それを率直に話すこと

謝ること。

すると、チームは変わっていく。

本当だ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

自然体でいるというのはとても難しいことです。

ましてや立場(ポジション)ができてしまうとそれはどんどん困難になっていきます。

でもありがたいことにマネージャーとしてのキャリアを重ねている僕は、余計な衒いみたいなものがどんどんなくなってきていて、かなり素に近い状態で仕事ができるようになってきました。

そしてそれによって、チームの雰囲気はとても良いものになっています。

僕はこれからもどうしようもないマネージャーのままでしょう。

でもそれを受け入れることで、チームは更に進化をすることができる。

そんなイメージを持ちながらこれからも仕事をしていくつもりです。

呆れずにお付き合い頂けたら幸いです。

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