やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば、人は動かじ?

UnsplashLuke Bruggerが撮影した写真

多くの人ができないから名言は名言たりえる

今日のテーマは山本五十六の名言である。

マネジメントを仕事にしている人であれば、どこかしらで1度は出会う言葉であると思う。

これを聞いてNoと思う人は少ないだろう。

大抵の人は「その通りだ」と思うと思う。

ただ、これが名言として世に通るということは、多くの人はこれをできていないという意味でもあるような気がする。

「そうだよね。そうあるべきだよね」とは思うものの、「いざ実践!」となると途端に難しくなる。

そして、僕は「そこまでマネージャーがやるべきなの?」と思っている。

今日はそんな話だ。

僕は我流で育った

まず前提として、僕自身は担当者であった時、「やってみせられた」ことも、「言って聞かせられた」こともあまりない。

自分で考えたものを勝手に「やって」、上手くいけば「誉められる時もある」というのが僕自身の過去の経験である。

そして(でも)、自分で言うのもなんだけれど、僕はできる営業マンであった。

上司がどんな人であれ、あまり関係なく高い成果を維持することができていたのだ。

自分の頭で考えよう

その要因の1つが「自発性」であると自分では考えている。

「自分なりの方法論を考え、それを実践してデータを採取する、それを次回に活かす、以下繰り返し」というのが僕が考える仕事の秘訣である。

誰かに「言われて」というのでは成功しない。

そこがこの名言に対する違和感に繋がっているのだ。

そこまでやる必要ってあるのだろうか?

いや、山本五十六の言うことはよくわかっているつもりだ。

大抵の部下というのは「自発性」なんてなくて、今日のテーマみたいな指導を繰り返していかなければ大成しない、というのはその通りだと思う。

そして山本五十六にはそれを実行できるだけの懐の深さや人間性があったのだと思う。

部下が失敗しても、文句ばかり言っていても、サボっていても、不貞腐れていても、腐ることなく真摯に向き合い、部下を育ててきたのだろう。

尊敬する。

敬服する。

でも、僕にはできそうにない。

そして、一介の中間管理職である自分が「そこまでやらなきゃいけないの?」とも思うのである。

もう少し言うと、「現代のビジネス環境においては、マネージャーがやってみせられることというのは時代に遅れていて、多様な変化を捉えられないのでは?」とも思うのである。

もう少し詳しく書いていく。

手本が先にある状態

ちょっと教育論的な話にもなってくるけれど、「手本が先にあって、それをコピーしながら自分のものにしていく」というのは日本人の得意分野であると思う。

そうやって、高度経済成長を経て、日本は先進諸国に追いついてきた。

でも、その先に現在の30年以上の停滞がある。

そういう意味ではキャッチアップ型は得意だけれど、自分で何かを創発したり、それを広めたりするのは苦手であるとも言える。

現代に昔のホンダやソニーみたいな会社はあるだろうか?

「いやいや、そうは言っても過去にはホンダもあったし、ソニーもあった。そういうことが得意なのが日本人なのではないか?」

そういう意見もよくわかる。

ただ、現代においてそのような日本企業はあるだろうか?

少なくとも、本田宗一郎や盛田昭夫・井深大を生むような土壌が日本にはかつてあったのだろう。

そして、それは時代適合的でもあったのだろう。

では今はどうだろうか?

そのような日本企業を思いつくだろうか?

「下賜される」という意識

もちろんここには行政的な制約も関係していると思う。

法令や税制なんてものも、起業をシュリンクさせるには十分な理由になる。

そして、そういうものもひっくるめて、「上からの指導」に関する窮屈さを僕は感じるのである。

もっと言うと、何事につけても「上からなされるもの」「下賜されるもの」という意識を持ってしまうことを僕たち日本人は変えなければならないのだ。

部下にも歩み寄りは必要では?

山本五十六の上司としてのスタンスはとても素晴らしい。

でも、それを受ける部下にもある程度の歩み寄り(向上心)が必要なのである。

ただ口を開けて待っているだけでは、成長はない。

もちろんそれも含めて山本五十六は言っているのだろう。

それすらも包摂しなさい、と。

でも、本当にそうなのだろうか?

そこまで僕たちがやらなければならないのだろうか?

内発的動機が人を動かす

上記した本田宗一郎や井深大らが誰かに指導されてあのような企業を立ち上げたとは僕には思えない。

そこには内から沸き起こる純粋な熱意があり、それに駆動されていたのだと僕は思う。

それが成長には必要なのだ。

もちろんその「きっかけ」を与えることは必要である。

上司はその「きっかけ」を常に仕掛け続けるべきだとは思う。

でもさ。

それは自分からも見つけに行かないと見つからないよ?

無限の言い訳

僕はあらゆることを他責にして、自分は口を開けて待っているだけの人が苦手である。

悪いのは外部で、教えてくれない上司で、理解してくれない同僚で、と無限の言い訳をし続ける人が嫌いである。

そして僕たちマネージャーはその人の親ではない。

気持ちは理解できる。

共感はしたいと思う。

でも、そのスタンスでは何も変わらないぜ?

いや、単純に僕の器が小さいだけか。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

あらゆる事象において「100対0」ということはあまりない、と僕は考えています。

不適切な事象であっても、自分がそこに存在する限り、完全に免責されることはあり得ない。

僕はそんな思考を持ちながら働いています。

だから、「自分は完全に悪くない」「悪いのは外部であり、他者である」という人を見る(そしてそういう人はとても多い)と、とても残念な気持ちになります。

親・先生・上司・組織・政府、言葉は何でもいいのですが、「上にあるもの(上にいる人)が何とかすべきである、私は無知で無垢な善人であるから」というスタンスであり続ける人に、僕は自分の労力を注ぎたいとは思いません。

「大人同士」であれば、僕は全力で向き合うつもりですが、そうでない「子供」は、まず「大人」になるべきです。

そうやっていらぬ敵を作りながら、僕はまた今日も働きに行きます。

共感して頂ける人は少ないかと思いますが、懲りずにお付き合い頂けたら幸いです。