職場に飲み会は必要か?

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飲み会スルー

コロナウイルスによるデメリットは枚挙にいとまがないが、強いてメリットを挙げるとすれば、余計な飲み会がないということだ。

社会人生活を始めてからこういう事態はなかったので、とても新鮮である。

会社で飲み会は禁止されているので、当然ながら歓迎会も送別会もないし、打ち上げもない。

個人的にはこれは歓迎すべきことだ。

公的な(強制的な)飲み会がないのはとてもありがたい。

昨年末に「忘年会スルー」というのが話題になったけれど、ようやくこういうことを表立って話してもよいという社会情勢になってきたのだのだなあ、というのが僕の実感だ。

誰しもがきっと心の中で思っていたけれど、それを口に出すことはできなかった、ある種のタブーみたいなものの1つがこの「忘年会スルー」「飲み会スルー」だと思う。

僕はそこでの議論を追っていた訳ではないし、ただ言葉として知ったというだけなので、そこからどのような方向に進んでいったのか、結論になったのか、はわからない。

ただ、個人的な実感として思ったのは、「開催する方も別に乗り気でない(人もいる)」ということだ。

もう少し詳しく説明する。

飲み会は嫌だけれど、飲み会がないのも嫌、という不思議な人達

個人として、僕は「飲みたい人が飲みたい人同士で飲めばよい」という立場だ。

私的な飲み会はとても好きだ。

友人だけでなく職場でも気の合う人と飲むことはとても有用だと思う。

でもそれは強制されるものではない

だから、公的な飲み会というのは気が重い、という気持ちは痛いくらいよくわかる。

一方で、マネージャーとして面倒な事態がここに生じてくる。

ある種の人達は、チームで(課で)飲み会がないことに不満を持つ、ということだ。

これは飲み会が好きで、職場の飲み会を心待ちにしている、というタイプの人を言っている訳ではない。

ここでの趣旨は、この種の人達が「決して飲み会が好きではない」というところに「ねじれ」が発生している、ということだ。

飲み会は嫌だけど、飲み会がないのも嫌、という不思議な人種が職場にはかなりの確率で存在する。

そしてこのタイプの人は、飲み会を開催しても、決してその場を楽しもう(盛り上げよう)とはしない。

つまらなそうな顔をして座っている。

だから、こちらも私的な飲み会に誘おうとは思わない。

結果として、公的な飲み会がなければ、この種の人達と飲む機会はなくなる。

これを不満に思うようだ。

自分達は疎外されているというように思うようだ。

であるのであれば、自分から誘えばいいのに、そういう努力もしない。

ただ誘われることを待っている。

これが僕には不思議でならない。

とても子供っぽい反応だと僕は思う。

マネージャーは親や先生のように部下に気を遣うべきなのだろか?

上手く伝わるか不安ではあるが、コミュニケーションというものは双方の努力があってこそ成立するものだと僕は考えている。

一方が努力するのでは成り立たない。

厳しい言い方をすれば、私的な飲み会に誘われないのはそれなりの理由や原因があるし、それが不満であれば、自発的に行動をしてみるべきなのだ。

でもその働きかけはない。

ただ隅の方でいじけているだけだ。

そしてそれを「あのマネージャーは飲み会を開催しない」「課内のコミュニケーションを蔑ろにしている」というように上司に告げ口をしたりする。

これは僕にとってはマネージャー七不思議の1つだ。

たぶん誘われれば僕は行くだろう(そのくらいの分別は僕にはある)。

でもそれはない。

愚痴のようになってしまうが、そこまでしてマネージャーは部下に対して気を遣わなければならないのだろうか。

というか、素直に「飲み会連れてってくださいよ」って言ってくれればそれで話は終わるような気がするのに、その表現をすることなく、陰口を言う、という心性が僕には理解できない。

子供同士の遊びでもそうだと思う。

「入れて」と言えばいいだけだ。

それで断られたのであれば、この種の不満は受け入れられる。

「なぜ私は断られるのか」という不満であれば僕は受け入れる。

でもここでの話はそうではない。

そもそもこちらは飲み会が嫌いな人だと思っているので、遠慮して誘っていないだけだ(いや、それに加えて誘うとつまらなくなりそうだから誘っていないという理由もある)。

私的で能動的な飲み会をそれぞれが行えばいいのでは?

議論をまとめる。

僕は職場に(強制的な)飲み会は不要だと考えている。

「飲みニュケーション」でしかコミュニケーションできないというのは時代に合わないと思っている。

でも一方で、飲み会でしかできない話というものもある。

立場を離れた、芯を食った話というのもある。

だから、私的な飲み会、それぞれが飲み会を成立させようという能動的な飲み会、をそれぞれが行えばよい、と思っている。

それは別に気が合うもの同士でなくとも構わない。

そこでの会話を求めている人同士で行けばいいのだ。

大人同士の飲み会を行えばいいのだ。

そこには子供は不要だ。

ただいじけているだけの人はそういう人達と飲み会を開けばいいのだ。

狭量すぎる?

マネージャー失格?

僕はそんなことはないと考えている。

共感者は少なそうであるが、僕はそう思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「飲み会スルー」「忘年会スルー」に僕は賛成の立場ですが、「飲み会を開催しないマネージャーは部下を蔑ろにしている」というように捉えられるので、仕方なく飲み会を開催しているマネージャーも一定数いるのではないか、というのが今回の主旨です。

太古の昔から、人類は宴を通じてコミュニケーションを図ってきたのだろうと思うので、飲み会を通じて親睦を深めた方が良いのではないか、という考え方には一定程度の理解はあります。

でも僕が不思議なのは、「飲み会は嫌なのに、誘われない自分を再認識したくないので、自分が参加しない飲み会がよそで開催されるのも嫌だ」という人が思いのほか多い、という事実です。

そしてそういう人は自ら飲み会を主催しようとはせず(もっと言うと自分も参加したいということを表明すらせず)、ただ子供のように不満ばかりを言っています。

その不満を抑え込むために仕方なくマネージャーも公の飲み会を開いているんですよ、ということは理解して欲しいなあ、と思っています。

書いていて本当に嫌になりますが、現場ではこんなことは日常茶飯事です。

もっとシンプルに仕事ができたらいいなと思っています。