ソロプレイからチームプレイへ

UnsplashAnnie Sprattが撮影した写真

利己主義の果てにある果実

仕事のソロプレイ化。

成果主義の影響なのか何なのか、それはわからないけれど、仕事の個人化が進んでいるように感じている。

また、その要因の1つとして、他者への無関心が底流にあるのではないかと思っている。

大事なことは「成果を出すこと」であるはずなのに、いつの間にか個人で成果を出すこと」が最重要視され、チームや会社全体の成果はその結果もたらされるもの(もたらされたらいいなと願われるもの)と考えられるようになった(というか考えられてすらいない)ように感じている。

確かにそれはそれで仕方のないことではある。

評価制度がそのようになってしまっているから。

そして、人間というのは元来利己的な生き物であるから(というか、生物というのは利己的である以外あり得ないのだ)。

ただ、ここで僕が思うのは、本当の意味で個人での成果を最大化したいのであれば、チームでの成果も高めなければいけないのではないか、ということである。

「チームでの成果が高まることにより、個人もその恩恵に浴すことができ、結果個人での成果を最大化できる」

利己主義を追求していった先にある果実。

理想主義的なアプローチだけでなく、そんなことを僕は考えている。

今日はその中の試論のようなものである。

それでは始めていこう。

暗黙知のタダ乗り

「みんな仲良くしよう!」

始めに断っておくと、僕が今日言いたいことはそういうことではない。

「チームプレイをするべきだ」というのは「皆が仲良くしていた方が働きやすい」からということではなく(もちろんそれは重要なことだとは思うが)、個人の成果を高める上でその方が有用であるからである。

というのも、職場で共に働くことの最大メリットは、そこにいる人たちが持っている暗黙知を極めて低コストで利用できてしまうことだからである。

リモートワークとリアルワーク

これはリモートワークを経験したからこそ実感できることでもある。

もちろん、リモートワークには大きなメリットがある。

通勤時間や移動時間を削減できたり、集中できる環境を確保できたり、その他様々な良い点がある。

でも、一方で、「ちょっとしたことを同僚に聞く」とか「給湯室で他部署の人と偶然会い雑談をする、結果アイディアが生まれる」とか、そういうことが起こりにくいというデメリットもある。

だからこそ、多くの企業がリモートワークとリアルワークのハイブリッド型を模索しているのだろう。

ただ、もしリアルワークが個人化しているとするなら、それも極端に個人化しているとするなら、そのようなリアルワークのメリットを享受できないことになってしまう。

リアルワークのメリットを減少させるかのような流れ

リアルワークの最大のメリットは、(先述したように)明文化できない暗黙知がそこかしこにあって、それを安価に利用できるということである。

また、それだけでなく、そこに雑味のようなものが入り混じって、単純な掛け算だけに留まらず、思いもかけない方向に進んでいくことである。

ただ、その為には、そのような「雑談」「ちょっとした会話」が自然発生的に生まれなければならない。

でも、現代の職場はそれとは逆方向に進んでいるように思える。

この流れを変える為にはどうしたらいいのだろうか?

リアルワークのリモートワーク化

コロナ禍におけるリモートワーク環境を経て僕が思うのは、同僚がすぐそこにいることのありがたさである。

そして、人的ネットワークとそこにある暗黙知のシェアによる仕事の生産性向上の凄さを改めて感じる。

もちろん、リモートワークだからこその集中できる環境も大事だと思う。

余計な声掛けや、それによる仕事の中断といったことはリモートワークでは起こりづらいから(といっても、家族からの呼びかけで手が止まることはあるが…)。

ただ、上記したような暗黙知がもし使えないとするなら、リアルワークのメリットは薄れてしまう。

仕事のソロプレイ化は、リアルワークのリモートワーク化のようなもので、だとしたら全面リモートワークでいいのではないか、と僕は思ってしまう。

媒介物。コーディネーション。

僕がいま考えているのは、「仕事のプロセスの共有化をどのように実現するか?」ということである。

それも、「他者の仕事を邪魔しない範囲における実現可能性」を探っている。

会議のような強制的に時間を拘束することなしに、過程を共有する方法が見つかれば、個々人の暗黙知が今よりも可視化され、それを簡単に利用できる可能性がより高まる、そのように僕は考えている。

そして、そのアプローチの1つとして、自分自身が触媒になるのはどうか、という仮説を立て、それを実践している。

僕自身がそれぞれの仕事の媒介物(ハブ)となり、ある種のコーディネーションを(邪魔にならない範囲で)行っていくこと。

また、それぞれが孤立化しないように、適切な介入を行っていくこと。

そんなことを考えている。

道化役を買って出る

イメージとしては、ピエロのようなものだ。

適切な頻度による刺激の拡散。

そこで起こる反応。

それを共有化していくこと。

ちょっとしたお節介のようなものが必要なのでは?

僕はチームプレイを実現する為にはお節介のようなものが必要なのではないかと思っている。

誰もリスクを取らないから。

余計なことをせず黙々と仕事をしていれば何も言われないから。

その中でほんの少しだけウザがられること。

また、進捗があればご報告したいと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「11人メッシ(クリロナでもエムバぺでもハーランドでもヤマルでも構いません)がいれば、最強のサッカーチームができるはずだ」

そんな小学生みたいな発想が、仕事のソロプレイ化(成果主義の個人化)の背後にはあるような気がしています(もちろん、メッシが11人いたら強いのかもしれませんが…)。

僕が思うのは、チームには色々な選手がいていいし、それは個人の能力だけ切り取って評価するものでもない(チームの戦略やコンセプトによってその選手の評価は変わり得る)と思っています。

そして、それは単純に「仲良しになることを望むこと」とは大きく異なります。

利己主義になることは悪いことではありません。

でも、チームが勝たなければ、利己主義で得られる果実にも限界があります。

チームで戦うからこそ得られる成果を手にしていきましょう。