意味を求めていく

お使いイベント
前回書いたコスパの件もそうであるが、何らかの目標がある場合、それを如何に手っ取り早く仕上げるか、に皆囚われ過ぎているように感じている。
いや、もちろん、わかるのだ。
効率的に、省エネで、かつ早急に、仕上げることがどれだけ重要であるかなんてことは。
ただ、仕事に対するスタンスが全てそのようになってしまうと、仕事というのはRPGで言う「お使いイベント」に成り下がってしまうように思う。
何らかのタスクを与えられて、それをこなすだけの仕事。
「いやいや、仕事というのは、元来そういう性質を帯びたものでしょ?」
まあ確かに。
でも、それだけでもないように僕は思うのだ。
少しだけ難しいことを話すと、内発的動機よりも外発的動機が優先されているのが現代という時代であるように僕は考えている。
というか、刺激というものは、当然外部から与えられるものだと考えられているというか。
その刺激に対して、反応していくのが人間であるというか。
これは報酬系みたいな話ともリンクしてくるのかもしれない。
コスパを追い求めるのは、手っ取り早くその報酬系を満たしたいからなのではないか?
そして、そうではなく、迂回的かもしれないけれど、意味を考えたりすることによって、自分の内部から欲望(刺激)が出てくることの方が、結果的にはそのような報酬系をより満たすことができるのではないか?
意味が分からないと思うけれど、今日はそんなことを書いていこうと考えている。
それでは始めていこう。
成長実感を得にくい時代
若手社員と話をした時に、「わかり易い目標があった方がやる気が出るんですよねえ」という言葉が出てきて、「そういう感じになってきたんだなあ…」と思うことになった。
もちろん、彼の言いたいことはわかる。
「目標が提示され、それをクリアする、それにより報酬が得られる」
そのようなモデル(というかイメージ)。
冒頭にも書いたように、仕事というのは元来「そういうもの」なのかもしれない。
でも、残念ながら現代という時代はそのような「わかり易さ」からは遠ざかりつつある時代であると僕は思っている。
予め用意された答えがある訳ではない時代。
皆が問いを抱えた状態で仕事をせざるを得ない時代。
となると、彼が言うような「わかり易い目標」を事前に提示することは困難であるとも言える。
ある種の行き当たりばったり感の中で、鉱脈となりそうなものを見つけていくことが仕事の中で重要になっていく。
そういう意味においては、成長実感というか、レベルアップ感というか、そのようなものが得られづらくなったのかもしれないとも思う。
昭和の時代であれば、それがある程度約束されていたから。
年功序列というところまでは行かなくても、年毎の目標をクリアし続けていれば、自身の処遇も上がり、ステップアップしているという実感を得ることができたように思う。
それが現代においては不明瞭になっており、そこに若い世代は不安感を覚えている。
不思議なものだ。
でも、世代を問わず、人間というのはそういうものなのかもしれないなとは思う。
合理化と残滓
若い世代と話をしていると、「合理化」という言葉が頭に浮かぶことがある。
無駄な物事を排除していって、どんどん排除していって、残ったエッセンスをやることに価値があると考えているというか。
それは仕事や試験への取り組み方、人との付き合い方等々において垣間見える。
そういう意味では、「コスパ」は良いのかもしれない。
でも、何が楽しいのだろうか、とは思ってしまう。
面白さや滋味の欠如
これは僕がミニマリストに対して抱く感情に似ている。
僕自身合理的に物事を考える人間であると自負しているので、ミニマリスト的な生き方にはとても興味があるし、そういう方向に向かって行くことに対する共感もある。
ただ、自分自身がそうするかというとそんなことはない。
というのは、何が楽しいのだろうか、と思ってしまうからだ。
物事の大半は、目的そのものではなく、その脇道に面白さが付帯するものである。
雑味の中にこそ、人生を豊かにするものが含まれている。
最短距離で、最短時間で、目的地に辿り着く旅行の無意味さ。
インスタグラム用の写真を取る為だけのイベント。
「いいね!」に駆動された行動。
わかるけれど、非常に原始的だなとも僕は思ってしまう。
アルゴリズムに踊らされる私たち
報酬系を手っ取り早く満たす為に最適化されたアルゴリズム。
それに易々と引っかかる私たち。
それも別にいいけれど、時には内から出る欲望みたいなものについて考えてみても罰は当たらないのではないかと僕は思う。
外部刺激で満足する仕事や人生
「それはなぜやるのか?」という問い。
確かに無駄な作業ではある。
でも、そのような無駄な作業を時々はやらないと、与えられた刺激だけで満たす仕事や人生になってしまう。
所与のもので、報酬系を満たしていくこと。
まあそれはそれで幸せなことかもしれない。
ただ、それだけではない快感があることは知っていても損ではないような気はする。
オープンワールドという名の箱庭
もちろん、選択は自由だ。
好きにすればいい。
でも、オープンワールドという名の箱庭には限界がある。
そこで起こるお使いイベントだけでは満たせないものがある。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
ボタンを押すことで快楽を得られる実験。
脳に電極が繋がれたラット。
そんなことを僕は考えながら、本文を書いていました。
そして、それはある種のユートピアであるかもしれないとも。
仕事は快楽を得る為の装置としては、結構優れたものであると僕は考えています(実際に僕はワーカホリック的であるので、それによって実際に人生における快楽を得ているのでしょう)。
でも、その快楽装置を外部に委ねすぎるのもどうなのかなとも思っています。
与えられた欲望だけでなく、自身の内にある欲望についても時には考えていきましょう。