成果主義に目標はいらない

UnsplashRonnie Overgoorが撮影した写真

具体的な数値目標は必要なのだろうか?

タイトルのようなことをここ最近ずっと考えている。

人が仕事をする上で、目標というものは必要なのだろうか?

目標がなければ、人は仕事をしないのだろうか?

「いやいや、何を当たり前のことを。目標がなければ、人が動く訳ないですよ。お花畑ですか?」

そんな声が聞こえてくる。

そして、言っていることもわからないではない。

でも、本当にそうなのだろうか?

確かにここで言う「目標」という言葉については、もう少しシャープに定義する必要はあると思う。

僕がここで言わんとしているのは、「具体的数値」のことである。

ただ、それがなくても「概略」「方向感」さえ共有できていれば、成果を上げることは可能なのではないか、と僕は考えている。

また、それによって最終的に評価をするにあたっても、「後出しじゃんけんだ!」という議論にはならないような気がしている。

何だか意味が分からないと思うけれど、今日はそんなことを書いていこうと思っている。

それでは始めていこう。

目標を設定することで人々を駆動させる

マネジメントとは人を動かす仕事である。

どのように人を駆動させるか?

それを考え、実行するのがマネジメントである。

そして、目標設定というのは、人を駆動させる仕組みとして世の中に広く浸透している。

「目標設定をすることで、人々がその方向に向かうように仕向ける」

これは裏を返せば、「目標設定がなければ、人々は怠けてしまう」ということを含意しているように僕には思える。

もちろん、そういう側面は多分にあるだろう。

人というものは、怠惰な生き物であるから。

でも、成果主義という制度は、成果を評価する仕組みでもある。

となると、目標を先に定めずとも、成果によって最終的に評価を行うのであれば、それで事足りるのではないか?

そんなことを思うのだ。

外部に評価されることだけをやるの?

いや、確かにここには、「では何をやったら評価されるのか?」という部分が捨象されているとは思う。

でも、一方で、そのような「評価されること」に力点を置いた行動というものも、それはそれでどうなのかなと僕は考えている。

評価されることを外部に委ねずとも、自分自身が成果に繋がると思うこと、それがチームなり会社に貢献すると思う行動を、適時適切に取ればいいのではないか?

もちろん、評価軸が完全にブラインド状態であるのは望ましくはないとは思う。

ただ、アウトラインというか、概略というか、「このような行動や成果が望ましい」というイメージが共有されていれば、そこに具体的な数値目標がなくとも何ら問題がないようにも思うのだ。

個人単位までブレイクダウンする必要ってある?

「いやいや、そうは言っても、会社には株主がいて、資本市場からの評価や圧力もあるのだから、そんな悠長なことを言っている場合ではないですよ」

それもわかる。

でも、株主や資本市場というのは、成果が伴っていれば別に何の文句も言わないだろうとも思う。

もちろん、決算予測というか、具体的な数値によってその成果の着地見込みを事前に開示しなければならないという要請は理解できる。

ただ、たとえそうであったとしても、そのような具体的な数値目標を個人単位までブレイクダウンする必要ってあるのだろうか?

チーム単位、もしくは部単位、くらいの目標設定でいいのではないか?

そして、そのチームなり部なりにどのように貢献したか、ということを事後的に評価すれば十分なのではないか?

そんな風に思うのである。

「成果」が恣意的に歪められるリスクはあるが…

繰り返しになるが、ここには「後出しじゃんけん」的な論点はあると思う。

成果評価が恣意的に運用され、「適切な行動や成果」というものが後から決められてしまう(歪められてしまう)というリスクが内在することは事実だろう。

でも、それはその制度を運用する者が1人である場合に起こるリスクであるとも言える。

成果評価自体を複数名で運用すれば、もしくは全員が成果評価に関与するようにすれば、そのリスクは避けられるのでは?

人間観と管理コスト

もちろん、最終的には、これは人間観に関わるものだとも言える。

性善説か性悪説か(もしくは性弱説か)。

僕はなんだかんだ言って、人間を善で捉えているような気がする。

というか、良いとか悪いとかそういう次元での話ではなく、管理コスト面を考えた場合、その方が効率的なのではないか、と考えているのだ。

そして、成果主義を標榜している以上、純粋に成果によって評価を行えば、行動が歪むリスクを抑えることができるはずだと思っているのである。

成果主義の斜度

きっとここで問題になるのが、「やってもやらなくても同じ」ということが常態化していることなのだろうとは思う。

日本における成果主義の課題の1つに、その「斜度」というか、成果による対価の傾斜がそこまで大きくないことがあるような気がしている。

それによって、「成果を上げても上げなくても大して変わらないのだから成果を上げる必要なんてない」と思ってしまう(思わせてしまう)ことになる。

そこにそろそろメスを入れないか?

事前予告通り、変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

目標というある種当然定められているものに、疑問を持っています。

目標がなければ、人は動かないのでしょうか?

僕にはよくわかりません。

これは小学生や中学生の時に、「何になりたいか?」と問われた時の当惑によく似ています。

それがないことがいけないことだと当然のように思っている大人たち。

そして、これは目標管理制度や成果主義にも繋がっているようにも感じています。

目標がなくとも、成果を上げることは可能です。

面白いと思うことをやっていきましょう。