管理職から支援職へ

父的な世界観におけるマネージャー論

タイトルの通りなのだけれど、最近はこんなことを考えている。

マネージャーの役割は「管理」することから「支援」することに変わってきているのではないか、と。

僕が毛嫌いしている「マイクロマネジメント」という言葉も、結局は部下を「管理」をするという思想から来ているもので、部下というものはどうしようもないことばかりしでかすから、それをしっかりと見張っておかなければならない、という概念が背景にあるのだと思う。

マネージャーを経験している身として、この概念を真っ向から否定するつもりはない。

部下がどうしようもないことばかりしでかすのは正にその通りで、それに振り回され続けるのがマネージャーの日常であることについても何ら反論はない。

それを「躾ける」というか「教育する」のが管理職の役割である、そういう側面があるのは事実だ。

でもそれが行き過ぎると、マネージャーの仕事は途端につまらなくなる。

予期できないこと、想定外の展開は、できるだけ避けるべきで、自分の手の届く範囲で仕事が収まることを無意識的に望むようになる。

予測可能で、安定している、静的な世界だ。

そこにおけるマネージャーはいわば父のような、神のような絶対的な存在になる。

傍若無人に走り回る子供たちを監視する教師のようになる。

自分が絶対的に正しくて、部下が絶対的に間違っている。

そういう世界観で仕事をすることになる。

同質性・均質性が尊ばれた時代

これは昭和時代においては有用な考え方であったのだと思う。

キャッチアップ型の経済というか、前方に見習うべき手本がある世界においては、なるべく前方に向けてレーンを外れないように走る方が効果的だ。

わき目を振っている余裕などない。

ただ同じように全速力で走り続けるだけだ。

できるだけ均質で、同じような背景を持っている人間がいる方が効率的だ。

それは日本人で、男性で、正社員で、もっと言えば、年功序列的で、終身雇用的で、上意下達的な組織が望まれる。

異質性をできるだけ排除していく。

その先鞭をつけるのが管理職の仕事だ。

線をはみ出そうとするものがいれば鞭でその足を叩き、走らないものがいればケツを叩き、羊飼いにおける牧羊犬のようにみんなを追い立てる。

同じことで笑ったり泣いたりすることを強要する。

疑問を持つことなどタブーだ。

軍隊における鬼教官のように訓練していく。

ザ・サラリーマンの出来上がりだ。

ジャズにおけるインプロビゼーションが生じる環境を作る

しかしながら、令和という時代においては、この「管理」という考え方では戦っていくことができない。

みんながみんな違う背景を持っていて、考え方も価値観もキャリアも性別も国籍もばらばらだからだ。

そしてそもそも走る方向がどちらかもわからない

その中でマネージャーは決断をしていかなければならない。

自分が本当に合っているのかなんてこともわからない状況下において、そのような多様な背景を持つ部下達に指示を出さなくてはならない。

でも残念ながらそんな指示なんて聞いてくれない。

指示を聞いたところで、会社も社会も右肩上がりになっていくなんて誰も信じていないからだ。

そんなマネージャーの戯言なんて聞いていられない。

会社になんて頼っていられない。

そもそも上司部下の関係だって、身分制度ではなく、ただその場限りのものに過ぎないのだ。

マネージャーに従う程の力量がなければ、従う必要などない。

そんな時代に「管理」をすることは少なくとも僕にはできない。

僕にできることは見えない答えを見つける為に部下を「支援」することだ。

彼らの良い所をできるだけ発揮できるようにその環境を整えることだけだ。

後のことは知らない。

きっと予想外の事が起こって、想定外の展開になっていくのだろう。

僕はその偶然性を楽しむしかない。

そのアドリブというか、インプロビゼーションに乗っかっていくしかない。

もちろんできるだけ地面落ちている石をよけておいたり、雑草を抜いておいたりはするけれど、後は思い思いに駆けてもらうしかない。

広い草原で好き勝手に走り回ってもらう。

転んで怪我をする奴もいるし、柵にぶち当たる奴もいるし、はっきり言ってしっちゃかめっちゃかだ。

そんな中で、倒れている奴を助け起こし、怪我をしたところに包帯を巻いていくのがマネージャーの仕事だ。

時々思いもかけない綺麗な花を拾ってきたり、絶景に向かう小道を発見してきたりする。

それに対して一緒に驚いたり喜んだりする。

それで十分なんじゃないかって最近は考えている。

理想論でなく、現実的な解として

過剰な同質性を求められる環境において、毛繕いのようなコミュニケーションばかりしている状況において、こんなことを言うのはリスクでしかないのかもしれない。

「もっと管理しろよ!」と言われることだって少なくない。

それでも、と僕は思うのだ。

これからのチーム作りはそういうものになっていくのだと。

これは何も水平的な組織構造が善で、垂直的な組織構造が悪、ということを言いたい訳ではない。

単純に「管理する」のが不可能な時代になっただけだ。

そしてその「管理」が不可能になった時代で成果を出すためには、これしか方法がない、それだけのことだ。

薄っぺらいだけの理想論ではない。

地に足の着いた現実的な解だ。

ユートピア性など微塵もなくて、ただただ結果を出そうとしたらこうなっただけだ。

でもそこに普遍性があるような気もしてきている。

もう少し時間が経てば、きっとそうなっていくのだろう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「マネジメントはアートである」なんて言ったら大風呂敷を広げ過ぎでしょうか?

でも僕は最近そんなイメージでマネジメントというものを捉え始めています。

そして本稿でも書いているように、それは即興性というか、ジャズ的なノリ(不定形なもの)を組み合わせる快感を伴うもののような気がしています。

一歩間違えればそれは不協和音になってしまうのですが、少なくとも譜面通り演奏するだけではこの世界では戦い抜いていけない。

各自が思い思いに演奏するそれを楽曲として成り立たせるために、バランスを取るのがマネージャーの仕事のような気がしています。

個性や長所をできるだけ疎外しないような環境を作りながらも、音楽として成立させる

それはとても難しいことですが、それを実現するためには、「管理」という発想から抜け出さなければなりません。

「支援」という言葉はややこそばゆいですが、今のところそんなイメージが一番近いかなと思っています。

参考になる部分があれば幸いです。