精神主義はもうやめよう

上手くいかないのは気持ちの問題ではない

何か上手くいかない時に、「気合いが足りないからだ」と言うようなマネージャーには気を付けた方がいい。

もちろん、オリンピックやワールドカップのように本当にギリギリの勝負の時には気持ちの問題というのは大きな要素を占めるとは思うものの、我々の仕事程度の勝負では気持ち以前の問題のことが多い。

それを「気合い」という心構えの問題として一掃してしまう考え方がマズいのだ。

これは日本的な考え方の影響が非常に大きいと思う。

「精神の方が尊い」という思想が根底にあるのだと思う。

旧日本軍のように、銃弾や食料がなくても、精神力があれば勝てる、勝てないのは気合いが足りないからだ、という考え方が未だに蔓延っている。

これを延長していくと、ブラック企業というものに繋がっていく。

企業が体育会系出身者を求めるのもこういったことが関係しているのだろう。

余計なことは考えずに、上意下達で業務を遂行し、精神力で勝負していく。

その方がマネージャーも「やれっ!」というだけなので非常に楽だ。

そしてできなければ「何でできないんだっ!」「気合いが足りないんじゃないか!」と言えばいい。

上から下までこのような「命令」が下ってきて、末端の社員はめくらめっぽうに動く。

そしていつの間にか上の人達はいなくなって、次の上の人達が同じような命令を下す。

そこには反省も回顧もない。

ただひたすら同じような精神主義を振りかざす。

成果なんて上がるはずがない。

精神主義の成功体験が忘れられないマネージャーたち

書いていて冗談みたいな話なのだけれど、こういった精神主義は「あるある」のカテゴリーの話だと思う。

たぶん高度成長期にはこういった精神主義でも通用したのだろう。

国民全体が豊かになっていく過程においては、「お願い営業」や「義理と人情」みたいなものを許容するような社会的な余裕、懐の深さのようなものがあったのだと思う。

「まあこれだけ何回も来てくれたのだから仕方ないか」というような営業手法が罷り通ったのだと思う。

そしてそれを成功体験として社会人経験を積んできた人たちが、今マネージャー層もしくはそれ以上にいる。

その人たちがその古びた考え方を部下に押し付けていく。

そしてできないのは部下自身のせいだと責任転嫁していく。

生産性が上がるはずもない。

竹槍戦法以外を知らない武将たち

精神主義というのは物量がモノをいうので、単純に生産性計算上の分母が増えていくことになる。

労働時間が増えていくけれど、それに見合った成果が上がる訳ではない。

結果的に生産性は低下する

もちろん中にはこの悪循環に気付いているマネージャーも存在する。

でも彼らには「自分のやり方」以外の方法が手元にないので、それを部下に提示することができない。

竹槍一本で戦っていくことになる。

本当はその戦法時代が時代錯誤であることを薄々気付いているから、尚のこと部下にはキツく当たるようになる。

自分の不甲斐なさを部下に転嫁するようになる。

エンドレスだ。

精神主義を相対化する

このようなマネージャーのチームは、マネージャーがいる時といない時の雰囲気が全然違う。

本心では誰もマネージャーの言っていることなんて信じていないからだ。

でもそれを表に出してしまうとなじられるので、表面上従っているように仕事をしているだけだ。

そのような「仕事ごっこ」が蔓延しているチームが良い成果なんて出せるはずがない。

でもそれが「ごっこ」であることにマネージャーは気付けない。

喜劇のような悲劇だ。

これを打開するにはマネージャー自身も新しいやり方を学ぶしかない。

現場に出て、実際の生の声に触れることも重要だろう。

部下からの話を聞いて、そのやり方を認めるような度量も必要だろう。

休日にマーケティングや心理学の本を読んだりすることも求められるだろう。

そのようにして自分のかつてのやり方を相対化していく。

その相対化を経ても、まだその精神主義が一番効果的であるのであればそれを遂行すればいい。

僕が嫌なのはこのような自助努力もしないで、思考停止してしまう人たちだ。

精神主義だって突き抜けていけば、たぶん物凄い成果を出すことができるだろう。

でもそれはチーム全員に適用できるような汎用性があるものではないはずだ。

マネージャー自身の能力やパーソナリティに合う個別的なものであるので、それをチーム全員に求めるのはお門違いだ。

部下ができないのであるのであれば、「何でできないんだっ!」と突き放すのではなく、自分事として「何でできないんだろう?」と一緒に考えることが大事なのだ。

それは確かにやや軟弱な感じがするのも事実だ。

旧来の「マネージャーらしさ」から離れた概念であることも否定できない。

現実的な戦い方としての「支援型」マネジメント

以前にも書いたけれど、「管理」ではなく「支援」というのがこれからのマネージャーのキーワードになると思う。

もちろんここにはコーチングという概念も含まれるのだけれど、上司と部下が対等に話し合うことができるアメリカ型のコーチングをそのまま儒教的な日本に適用するのは少しハードルが高いような気がしている。

コーチングというのは双方向であるべきで、上司が不足している部分については部下からのフィードバックが求められる。

でも、儒教的な価値観が強い日本において、この部下からのフィードバックは「反抗」というようにまだまだ受け止められがちだ(忖度も含む)。

なので、現時点では、「支援」という言葉の方がよりわかりやすい概念であると思う。

強いリーダーになりたいと僕も思ったことがある。

単純に格好いいし、その方がマネージャーっぽいからだ。

でもそれだけのカリスマ性や人間性がないので、僕はこのやり方で勝負していくしかないと途中で方向転換した。

それはある種の挫折だ。

でもそれはそれで上手くいっている。

精神主義を捨てることは確かに勇気がいることかもしれない。

でも事実と向き合って、数字と向き合って、論理的に戦略を立てることができれば、マネジメントは格段に楽しくなってくる。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

精神主義を否定すると、「軟弱だ」となじられる風潮があります。

四の五の言わずに一生懸命やることが尊い、屁理屈ばかり言うな、みたいな形で片づけられてしまうことが多いのですが、その人たちが結果を出している訳でもないので、僕からしたらとても不思議だし、そっちの方が甘い世界だと思うのですが、どうもそうは捉えられないようです。

確かにドラクロアが描く「民衆を導く自由の女神」のように、みんなの先頭に立って人々を導いていくのがリーダーらしいとは僕も思います。

でもそれはあくまでも「結果を出してこそ」です。

その部分を捨象してしまって、「過程」を必要以上に礼賛するのはどうなのかな、と僕は考えています。

結果は結果としてシビアに評価する方がよっぽど厳しいのに、それは「非情」だとして自分の手を汚すことはない。

そちらの方がよっぽど軟弱だと僕は思うのですが、こういう考え方はおかしいようです。

僕は「支援」という軟弱な方法で、これからも結果を出していくつもりです。

共感いただける部分があれば幸いです。