誠実であること

マネージャーはノイズになりうる

マネジメントのことを書こうとすると、人生論めいてしまうのはなぜだろうか?

というのは、物凄く単純化して言うのであれば、マネージャーというのは「お飾り」でいいのではないか、ということを最近考えているからかもしれない。

別に何もする必要はなくて、ただそこにいればいい、その程度の存在でいいのではないか。

むしろその方がチームにとって有益なような気がしている。

マネージャーが出しゃばるとろくなことがない。

地位や名誉や名声を得ようとすればするほど、チームの速度は落ちる。

不純物が混ざってしまうようなイメージだ。

できるだけノイズにならないように、存在しないように。

屈折率を上げないように。

そんなことばかり考えている。

倫理的基準点としてのマネージャーの存在価値

これはマネージャー不要論にも繋がっていく発想でもあるのだけれど、そこまではいかない、と僕は考えている。

それは自分がマネージャーであるから、そのポジションの無意味性を主張すると存在価値がなくなってしまうから自己防衛的になっている、という要素がないとは言えないけれど、それでもマネージャーは必要だと思っている。

存在はしているのだけれど、できるだけ透明であること。

それはなぜか?

それは倫理的基準のようなもの、基準点のようなもの、錨のようなもの、としての存在価値だ。

そしてその為にはマネージャーに私心がない方が良い。

それが今回のテーマである誠実性というものと繋がってくる。

五里霧中の拠り所

チームというものは様々な障害にぶつかる。

その障害への対処方法として、マネージャーが先導していく、というのが旧来からの「マネジメント」というイメージであると思う。

正しい方向へ導いていくリーダーというような感じだ。

それはゴールが明確であれば適当ではあるけれど、現在という時代においてはゴールなんてものはないし、そもそもどちらが前方かすらわからない。

そんな五里霧中をチームは走らなければならない。

文字通り駆け抜けなければならない。

メンバーは不安な状態なまま、自分のやっていることが正しいことなのか、それがわからないまま、仕事に取り組んでいる。

その時の拠り所になるのがマネージャーであると僕は考えている。

ちょっと言い過ぎなきらいはあるものの、そんなところにマネージャーの存在価値を見出している。

チームの行動はマネージャーの普段の言葉の現れとなる

これは何も「重大な決定」ということではない。

何気ない日常における判断、その積み重ね、そんなところに存在価値がある。

僕たちはチームにおいて、日々様々な言葉を交わしていく。

仕事に関係していることもあるし、そうでないこともある。

そこにマネージャーの価値観みたいなものが現れる。

どこかで書いたと思うのだけれど、チームの行動の大半はマネージャーから見えないところで起こっている。

その見えない状況の中で、チームの指針となるのは、マネージャーの日々の言葉だ。

判断に迷った時に、メンバーはふとマネージャーの言葉を思い出す。

たぶんマネージャーならこのように言うだろうな、ということを考えて、どのように行動をしていくかを判断していく。

その累積がチームの行動となる。

「お天道様」としてのマネージャー

もちろんマイクロマネージャーのように、メンバーのすべての行動を、一挙手一投足を、指示していたいという人もいるだろう。

そのような全能の神のような存在としてマネジメントを捉えている人もいるだろう。

でも僕のイメージはそうではない。

日本人的な感性から例えるのであれば、(言い過ぎではあるとは思うものの)お天道様のような感じだ。

メンバーは各人毎の「個」を持った存在だ。

意思を持った存在だ。

でも時に判断に迷う。

そしてそれを全て指示することはできない

その時に判断軸になるのがマネージャーだ。

だからこそ、マネージャーには誠実性がなくてはならない。

私心を捨てる

この議論を進めていくと、マネージャーというのは向上の余地がない(そもそもの心性や徳性によってその限界が規定されてしまう)、ということにもなってしまうのだけれど、僕はそんな風に考えている。

誠実性というのは努力でどうにかなるものではないとは思うものの、その意識を持つだけでマネジメントの方法は変わるのではないか、そんなことを思っている。

人間は弱い生き物なので、狡さが時々顔を覗かす。

功利的に行動したくなる。

でもその誘惑を跳ねのけて、何が本当に大切なことなのか、それを基準として判断を行っていく。

そこに自分が含まれていなくて構わない、というような気概を持たなくてはならない。

上手く表現できないのだけれど、これは黒子に徹するということではなくて、玄人受けするプレーを選択する、というようなイメージを僕は持っている。

そこまで善人ではない僕が、私心を完全に捨て去ることは不可能だ。

その中で、どのように誠実さを維持するか。

それを僕は考えて仕事をしている。

自分の善性を願って

ある朝目が覚めて、全く新しい自分が生じるのであれば、それはとても素晴らしいことであると思う。

でもそんなことは起こらない。

昨日の延長線上にある不確かで凡庸な自分が鏡に映るだけだ。

自分自身を聖人にすることはできないけれど、聖人のようなイメージを持ってプレーをすることはできる。

観客の大多数はそのプレーの質なんてわからないだろうけれど、一部の人にはそれがわかる。

そうであって欲しいと思う。

そういう意味では、それは「願い」のようなものなのかもしれない。

きっとただの自己満足に過ぎないのだろう。

それでも、だ。

僕はそんな風に考えている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

マネージャーというのはつくづく評価されないものだと思います。

でも、それでいいのだ、と最近は考えています。

大抵の評価者はマネージャーが代わることで、なぜチームに変化が起こるのか、がわからないようです。

だからと言って、マネージャーが自分をアピールし出すと碌なことはありません。

絶妙なバランスが崩れてしまうからです。

評価されない虚しさを抱えながら、自己満足に過ぎないと嘆きながら、チームを運営するくらいがマネージャーには丁度いいのだと思います。

そしてそのマネージャーがいなくなった時に、その不在性が立ち現れてくる。

そんな風に僕は自分自身を慰めています。

共感していただけたら幸いです。