本音を求める時代

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社会的な潮流?

このブログではマネジメントを主題として色々なことを書いているが、そういう意味において、ここ数年「本音」が求められるようになってきたように感じている。

もちろん社会的な大きな潮流としてそのような形になっているのかもしれないけれど、僕はあくまでも一社会人として、ただの凡庸なマネージャーとしての感想を書いている訳で、本当にそうなのかは正直言ってよくわからない

あくまでも主観的なものなので、その辺を割り引いて読んで頂きたい。

僕たちには見たいものを見るという心性がある

メディアの形態の変化やSNSの勃興やフェイクニュースの氾濫など、僕らは様々な情報に取り囲まれていて、その真偽がよくわからないまま、日々を過ごしている。

というか、あまりにも情報が多すぎるので、真偽よりも「エンタメ性」に重きを置きながら、その洪水に飲み込まれ続けている。

できるだけ面白いものの方が良いし、手軽で速いもの、わかりやすいものが選好される。

でも同時に、その「胡散臭さ」みたいなものも嗅ぎ取っていて、過剰にラッピングされたプレゼントの空虚さみたいなものも感じていて、その裏返しとして、真実を過剰に希求してもいる

何周かその「真実」と「フェイク」のトラックを走った後、「これこそが本物ですよ」と差し出された真実を纏ったフェイクを僕らは信じたいと願っている。

でもそのラッピングを解いた箱には何も入っていない。

ただの空き箱だ。

僕らはその空き箱を眺めながら、そこに入っていたかもしれないものを想像する。

もしかしたら、そこに入っているものを幻想として見る。

僕らは見たいものを見るから

本当はそこにないものを現前させたいと願うから。

それ自体は良いとか悪いとか、そういう範疇のものではない。

僕らはそういう心性を持っているのだ。

そこにホログラムされた幻想を心から信じようとしながら、同時に心から疑っている。

そのような不安定な感情を仕事をしていてもよく感じるようになった。

オンラインとオフライン

特に若い人に強く感じることだけれど、彼らはデジタルネイティブだからなのか、必要以上に「完成された自己」に囚われている。

意識的なのか無意識的なのかはわからないが、「理想的な自己」をデジタル上に現出させようとしている

そちら側の「肥大した自己」「本当の自分」であるというように自分に暗示をかけ続けている。

そしてそれは欺瞞であるということにも薄々気づいている。

でもそれを知ってしまうと、認めてしまうと、「理想的な自己」が崩壊してしまうので、リアルな方の自分を騙すように行動する。

かくして、デジタルな自分とリアルな自分が乖離していく。

僕が彼らを半分インターネットに接続された人間として認識しているのはこのような観念から来ている。

グーグルを「サブ脳」としている彼らは、いつしかその全能感を無意識的に帯びるようになる。

ネット上に溢れる情報を、自分の経験をクラウド化(データベース化)しているように勘違いする。

でもリアルな体は現実にあって、リアルな個体は全能性のかけらもない

オフラインの彼らは、生身の経験が乏しい、幼児性を抱えた弱い生き物だ。

シンデレラの魔法が切れる時(ネットがオフラインになる時)、彼らは現実の自己と対面せざるを得ない。

みすぼらしい自分の姿を直視するしかない。

それはきっと深夜一人になった時などに訪れるのだろう。

まるで太古の人類が火が消えるのを恐れたように

若者たちは「本音」を求めている

暗闇の中で、若者たちはずる賢い大人たちに取り囲まれているように感じている。

周囲は自分達を騙そうと虎視眈々と狙っている敵ばかりだと感じている。

その生身の自分の弱さを感じているから、過剰に自己防衛的になる。

そして僕たち大人の言葉はフェイクだと受け取られていく。

でも何かにすがりたい

デジタル上に敷衍された肥大した自己と生身の「本当の」自分の乖離を埋めてくれるもの。

大海の中における浮き輪のような。

そういう「何か掴まれるもの」を求めている。

リアルな自分が信じられる拠り所となるものを強く求めている。

フェイクじゃないもの、自分を騙そうとしていないもの、搾取しようとしないもの。

それが「本音」だ。

本音に対する渇望だ。

そんな風に感じる時がある。

「誰かの言葉」でない言葉

このブログ内でも言及していることだけれど、「言葉を地面に下ろす行為」の重要性はこの本音を求めている層が増えていることにも関係しているのだと思う。

空中を飛び交う言葉でなく、地に足の着いた言葉を使えること。

それが信頼感を生むために欠かせない要素になってきている。

オフラインの状態で、誰かの借り物のものでなくて、ネットから引用されたものでなくて、昨日テレビで言っていた誰かの受け売りじゃなくて、「自分の言葉」を話すことができること。

マネジメントに限らず、それが求められている。

自分の利益になることじゃなくて、利益誘導的なものじゃなくて、搾取的なものじゃなくて、フラットな立場から出るイデオロギーを纏っていない言葉。

そしてその言葉に行動が伴っていること

それを日々精査されているように感じている。

平面的な「いいね!」から遠く離れた愚か者の言葉

無関心を装っているように、熱量を外部に漏らさないように、素知らぬふりをしながら、彼らは誰よりも信じられる言葉を求めている。

良く言えば純真で初心な彼らは、赤子の状態で野生に放り出された彼らは、自己防衛的でありながら、本音を話すものへの憧憬を捨てきれないでいる。

過剰な同質性、平面的な同意の渦から外れた、異論を恐れない愚か者を本当は誰よりも羨ましく思っている。

そんな人たちがこれから社会の多数派を占めていく。

そういう人たちと僕はこれからもチームで働いていくのだろう。

上手くできるかはわからないけれど、これからも僕は自分の言葉を使っていきたいと思っている。

阿りのない党派性のない話をしたいと思っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

「国家」とか「社会」とか「会社」とか、「大きな物語」の信頼性が消失した現代において、バラバラになった個人は自分の身を守る為の「次の物語」を求めています。

かつて大きなムーブメントとなった地元志向やシェアハウスというのは、そのような物語を代替する小さなコミュニティの1つだったのでしょう。

そして現代ではそれがSNSなどのデジタル上に現れているのだと思います。

でも、それにも疲れてしまった人達がいる。

僕はオフラインの世界で、生身の彼らを肯定するようなチームを作りたいと思っています。

仲良し同士ではなくて、ただ仕事上の付き合いでしかないチーム。

でも過剰に自分を飾らなくていいようなチーム。

そんなことをぼんやりと考えています。

会社というのはもう壊れてしまった共同体の一種ではあるのですが、そこにある「仕事」にはまだ自己肯定感や有用感を感じられる要素が残っています。

チームに所属することでそれを感じられるのであれば、僕がマネージャーという仕事をする意味みたいなもの(僕も同じように自己肯定感を求めているのでしょう)が生まれるような気がしています。

そんなことを言っている場合ではない過酷な環境の中で、それを両立できるようなチーム作りを僕は目指しています。

マズローを持ち出すまでもなく、社会にとって自分が役に立つ人間でありたい、というのは、人間の根源的な欲求です。

それを少しでもできるように、これからも仕事をしていきたいと思っています。