話をするタイミング

昭和の匂い

同僚のマネージャーから若手社員に対する不満の声を聞くことがある。

「なぜあいつらは頑張ろうとしないのか?」と。

同僚のマネージャーの多くは、僕と同じくらいか年上で、その価値観の相違に悩んでいることが多い。

僕の世代には、ギリギリ「昭和の匂い」が残っていて、仕事は死ぬ気で頑張る、将来に向けて努力を続ける、というような価値観がやや優勢であるように思う。

御多分に漏れず、僕もそのような価値観を有していると言えなくもない。

でも、どちらかというと、若手だった頃から僕はそのような考え方に違和感を覚えていて、今の若手社員の「仕事も人生の一部に過ぎない」という価値観の方に親近感を感じることが多い。

ただ、そうは言っても、仕事には「ターボ」を入れて頑張らなければならない局面があるとは思っているし、それは若手社員にも伝えなければならない。

それをどのようにするのか?

今日はそんな話をしていこうと思う。

残酷な人間鑑定に耐えられるか?

同僚のマネージャーを見ていて思うのは、「話をするタイミング」という概念がないのだな、ということである。

特にこのような種類の「説教臭い」話というのは、相手が受け入れる態勢を取っていなければ、刺さるものも刺さらなくなってしまう。

そして、現代の若手社員には、僕たちが若手社員だった頃とは違って、上位者の言うことは必ず聞かなければならないという概念が存在しないのである。

彼ら(彼女ら)は、僕たちの本質を見ている。

聞くに値する人間なのかどうかを、きっちりと計算している。

そして「そうではない人間である」というカテゴリーに入れられた後は、どんなに内容が優れているものであったとしても、聞き入れられることはない。

ある種残酷な人間鑑定。

その選別にあなたは耐えられているだろうか?

下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる?

マネージャーには押し付けがましい人が多い。

要は、自分の成功体験を部下にも当てはめようとする人が多い。

それも善意で

僕からすれば、そんな成功体験など数多ある経験の内の1つに過ぎず、統計的有意性など存在しないのに、それを汎用性のあるものとして扱おうとする図々しさと厚顔無恥さに呆れてしまうくらいなのだけれど、実際にこういう人はとても多い。

そして、そういう人に限って、「乱打」を行う。

大切だと思うことを、相手の状況を考慮することなく、ひたすら言い続ける。

もちろん、言い続けることは重要である。

ただし、相手が聞く態勢になっているのであれば。

この辺がわからない人がとても多いような気がする。

キツいのを一発

僕は自分からそういう話をすることは殆どない。

日々思うことはあるけれど、基本的には僕と彼ら(彼女ら)は別の人間であって、僕には僕の、彼ら(彼女ら)には彼ら(彼女ら)の人生があると思っているので、正直な話、各々が良いようにやっていけばいいくらいのドライな人間観を持っている。

ただ、そのような人間観の僕でさえ、「言わなければならない時」というのは訪れる。

その時に的確な言葉を言えばいい。

「重いパンチ」を1つ当てればいい。

僕はそのように考えている。

言葉に重みを持たせる

言葉の重みは、言行一致によって作れられると僕は考えている。

僕は自分自身ストイックだとは思わないけれど、他人からはよくストイックだと言われる。

僕はできないことはできないと言うし、格好つける為だけの言葉は言わないようにしている。

そうやって自分の言葉に責任を持たせるようにしている。

自分の言葉に責任を持たせると、言葉に「担保性」が生じる。

担保性というのは、今思いついた造語で、言葉単体ではなくて、そこにモノが付帯する、重みが付帯する、みたいなイメージである。

僕の言葉は軽やかに拡散することはないけれど、重低音のように心の奥に届く、そういう言葉でありたいと思っている。

それを良いタイミングで、確実に当てる。

それで十分なのである。

ホンモノとニセモノ

若手社員と話していると、「本物を切望している」という感覚を受ける。

彼ら(彼女ら)は偽物を求めていない。

多くのニセモノたちが跋扈している世の中において、衒いのない真っすぐな言葉を求めている。

SNSがこれだけ溢れているからなのか、言葉が氾濫しているからなのか、その原因はわからないけれど、軽くない言葉を、彼ら(彼女ら)をそれこそ飢えている人のように求めているような気がする。

嘘のない言葉を

そこには彼ら(彼女ら)の人間観が関係している(と僕は思っている)。

彼ら(彼女ら)は人間を侮っている。

大人を侮っている。

「こんなものなんでしょ? あなたもその1人なんでしょ?」というメッセージを常に発信している。

でもそこには寂しさが混じっている。

捨てられた子猫みたいに、人間を疑いながら、人間をこの上なく求めている。

僕にはそれがSOSみたいに見える時がある。

そういう時に僕は言葉を添える。

その言葉は時に厳しかったり優しかったりするけれど、少なくとも嘘が混じっていない、本心からの言葉を言うようにしている。

効果はわからない。

でも、少なくとも僕は、同僚のマネージャー達のように、「言葉が届かない」という感覚を持つことはない。

僕の言葉は確実に彼ら(彼女ら)に届いている。

まあそれも僕の自己満足に過ぎないのかもしれないけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

現代は本音の時代です。

マネージャーとして経験を重ねるにつれ、若手と呼ばれる世代とは年齢差が開いてきていますが、同僚たちに比べ、話が通じないというような感覚を持つことが僕は少ないのかもしれない、と感じています。

それはひとえに、僕が正直に言葉を使っているからではないか、と思っています。

僕は自分を棚に上げることが嫌いです。

自分を棚に上げた人の言葉は、現代では誰にも響きません。

嘘をつかず、格好つけずにいきましょう。