近くと遠く

UnsplashRan Berkovichが撮影した写真

仕事に対するスタンス

今日はキャリアの話というか、仕事に対するスタンスみたいなものを書いていこうと思う。

というのも、若手のマネージャーからどのようなことを考えて仕事に取り組んでいったらよいか、という質問があったからである。

これは難しい質問だ。

僕はキャリア的に成功しているとは言えないし、そんな大層なことを言える立場でもないから。

ただ僕なりに最近考えていることを彼に話したところ、それなりに手ごたえがあったので、今回はそれを文章化してみようと思う。

参考にはならないかもしれないけれど、お付き合い頂けたら幸いである。

近い仕事と遠い仕事

僕が最近考えていることは、「近くと遠く」についてである。

これは仕事の近さと遠さを表す。

近い仕事というのは、目の前の仕事ではっきりとしているもの。

遠い仕事というのは、まだ目視できずぼんやりとしているもの。

この2つを大事にすることが、キャリアにおいては大事なのではないかと考えている。

中間の仕事は気にしなくていい

これは裏返すと(というか角度を変えると)、中間の仕事はそれほど気にしなくてもいい、ということになる。

中間の仕事というのは、一般的に考えられているような昇進・昇格の類や、「こういう部署に行きたい」という願望などのことを指す。

そして、世間的なキャリア論というのは、大半がこの中間の仕事についての話であるような気もしているのである。

願いは叶わない。でも、叶わないことが悪いことでもない。

「いやいや、昇進や昇格は大事でしょ?」

「ああ、今回はキレイゴトの話ね?」

そのように感じられた方もいるかもしれない。

でも、今回言いたいことはそういうことではない。

もちろん、昇進や昇格は大事だし、行きたい部署があることも大事だ。

ただ、それが叶うかどうかというのは別問題である。

というか、往々にしてそのような願いというのは叶わないものでもある。

そして、叶わないことが悪いことでもない、ということも言い添えておく。

もう少し先のこと、ぼんやりとした遠くの仕事のことを考えていれば、それまでのキャリアというのはあくまでも中継地点となるから。

自分に関係のある(ない)仕事とは?

近くの仕事、目の前の仕事を大切にしなさい、というのは誰でもわかることだと思う。

仕事というのは、「受け」から始まることも多いし、意に沿わない仕事だってたくさんある。

そのような仕事に対しては、テキトーに向き合うことも、真摯に向き合うこともできる。

先ほどの例で言うなら、自分の行きたい部署があるとして、その部署とは関係ない仕事が目の前にはたくさんあるとする。

これを自分の仕事とは関係ないとか、やりたいこととは違うと言って遠ざけてしまうことが、特に若手にはよくあることだと思う。

そして、それはそういった日々の努力の積み重ねが実力を育み、他者からの評価を生んで、行きたい部署に行けるようになる、だから目の前の仕事を頑張りなさい、という文脈の物語で近い仕事の有用性が語られることも多いような気がしている。

もちろん、それが間違っているとまでは言えない。

でも、僕が思うのは、それは目標の立て方、視点の置き場所が間違っていることもあるのではないか、ということである。

もう少し遠くの場所を見ていれば、その仕事が自分にとって関係があるかないか、なんてものはあまり関係なくなるのでは?

そのように思うのである。

ぼんやりとしたイメージしか持っていないことは悪いことなのか?

遠くの仕事というのは、「具体的な何か」を指すわけではない。

「こういうことをしたいな」とか「こんなことができたらいいな」というような、具体性のない、ぼんやりとしたイメージである。

これは世間一般のキャリア論では、どちらかというとあまり良いものではないと捉えられているような気がする。

「もっと具体的なキャリアパスをイメージして」とか、「5年後10年後、自分はどうなっていたいか。そこから逆算して今の仕事に取り組みなさい」とか、そんなことが当たり前のように言われているように感じる。

繰り返すが、それは間違いだとは言えない。

でも、ちょっと視野が狭いというか、短絡的過ぎるように僕には感じられるのだ。

というのも、(今度は先程とは逆説的になるが)それが仮に叶ったとして、満たされないような気がするからである。

目的と手段

これはジョブ型雇用専門性志向といったものにも敷衍できる。

その仕事ができたとて、そのような専門性を身に付けたとて、「じゃあそれで何をするのですか?」ということがなければ、あまり意味がないような気がするのだ。

表現が適切かどうかはわからないが、「大学入試で志望校に入れたけれど、そこで何をしたいかを持っていない学生」、そんな感じの人が社会人でも大勢いるように思うのである。

これはある種「目的を持つことの弊害」とも言える。

詳しくはまたどこかで書こうとは思っているけれど、「具体的なキャリア(目的)」を描いてしまうと、あらゆることは「手段」に成り下がってしまうような気がしている。

そして、その目的が叶った時、手段としての仕事をしていた人というのは、社会にとって有用だと言えるのだろうか?

裏を返せば、目的がないこと、キャリアイメージがないことは、そこまで悪いことでもないのでは?

そんなことを思ってしまうのだ。

また変な話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

人生とは目的に向かう為の手段なのか?

その道中こそが人生なのではないか?

僕はそんなことを考えてしまいます。

それは「享楽的に生きろ」ということとはちょっと違うニュアンスであると僕は考えています。

あまりにも目的に囚われると、目的地に行くことに執着し過ぎると、旅はただのスタンプラリーになってしまいます。

思いもかけない寄り道や、偶然そこで出会った人物により、旅はカラフルになるものです。

そして、仕事も多分一緒です。

ボヤっとしながら、目的をぼやかしながら、仕事をしていきましょう。

キャリア論

次の記事

目的至上主義社会