自律の規律

UnsplashLuke van Zylが撮影した写真

自律した人達で構成された集団における規律

自律の規律。

変なタイトルである。

最初は自律「と」規律、としようかとも思ったけれど、その2つの対立性を書きたい訳ではなく、「自ら律している人たちが集まったことで生まれる規律」について今日は書いていこうと思う。

どちらかというと、規律という言葉には、他者からの視線、というものが含まれているような気がする。

特に日本においては、周囲に馴染むことが重要視されるので(同調圧力もここに含まれる)、そのような無言の圧力によって規律が保たれている、ということが往々にして起こるけれど、それは必ずしも望ましい状態ではない、と僕は思っている。

ましてや、マネージャーの圧力(例えば権威や脅し)によって規律が保たれた状態が優れたものではないことは言うまでもないだろう。

あくまでも個々のメンバーが自律していることが前提で、その人たちが集まった時に、集団としても一定の規律が保たれている状態。

それが目指すべきチームの姿である。

それでは始めていこう。

その規律は自律的?

「部下が自律的ではないのは、そのマネージャーに責任がある」

やや厳し過ぎるきらいはあるけれど、僕はこのような考え方を基にマネジメントを行っている。

だから、もしあなたの部下が自律的でないのなら(そしてそれを嘆いているのなら)、あなたのマネジメント手法に問題がある可能性が高いと僕は考えることになる。

「でも、規律は取れていますよ?」

そんな声が聞こえてくる。

言っていることはわかる。

でも、その規律は自律的なものですか?

それが僕が逆に問いたいことである。

自由と学級崩壊の違い

「部下が自律的に動くことで、チームにも規律が生まれる」

この言葉は多くのマネージャーには理想論的に響くのだろうなという気がする。

だって、部下は自律的に動かないし、仮に自律的に動いたとしても、それは自由気ままに動いていることに近い訳で、となるとそれが集まったチームというのは、統制が取れないものになるのではないか?

そんなイメージである。

言わんとしていることはわからなくはない。

たぶん学校で言う「学級崩壊」みたいなものを想定しているのだろう。

でも、僕が今回言いたいことはそうではない。

メンバーそれぞれが「大人」になることで、それぞれは確かに一定程度自由に活動するのだけれど、チームとしての方向性が一貫している状態というのは作ることができる。

ただ、その為にはメンバーを「大人」にしなければならない。

子供扱いを続ければ、部下は子供のままだ

では、部下を「大人」にする為にはどうしたらいいのか?

(当たり前の話であるが)部下を「大人」として扱う、これしかない。

「いやいや、部下のレベルが低すぎて、大人として扱うなんて無理ですよ」

またもやそんな声が聞こえてくる。

これも言っていることはよくわかる。

多くの部下は大人として扱える水準にはない、というか大人として扱えるならとっくにそうしている、そんな感じだろう。

ここに大きな勘違いがある。

それでも、「大人」として扱うことが大事なのだ。

多くのマネージャーはここでレベルを下げる。

「子供扱い」を始める。

でも、それはやってはいけない。

というか、それをやってしまったら、自律的な部下は生まれないし、自律的なチームの構築は不可能となる。

それでもいいならその覚悟があるなら、子供扱いを続ければいい。

ただ、だったら、文句(愚痴)は言うなよ、とは僕は思うのだ。

権威によらなければ、規律は生まれないのか?

規律のあるチーム。

それは(日本においては?)多くの場合、親と子先生と教師上司と部下というように、権威を与える上位者とそれを受ける下位者、という構造を取るように僕には思われる。

要は、上位者が怖いから(怒られるからetc.)指示に従う結果として規律があるように見える、そんな感じだ。

そして、それ以外のパターンはあまりない、もしくは想像されていないように僕には感じられる。

そこで今日の話である。

部下を子供扱いすることをやめてみる。

大人として扱うようにする。

自由意思の発露は面倒くさい

これが言葉としては簡単であるが、思いのほか難しい。

でも、これができなければ自律的なチームの構築は不可能だ。

そして部下を大人扱いするということは、そこに自由意思が生まれるということでもある。

もう少し具体的に言うなら、意見の相違や、対立、不和、なんてものも生じてくる。

それを上位者という権威を笠に着るのではなく、対等な立場として対話することができるか?

それだけの人間性を備えているか?

ここが問われてくることになる訳だ。

結局、自分の人間性のなさと向き合うのが怖いんだろ?

しかし、ここで多くのマネージャーはそのような人間性のない自分と向き合うことを恐れる。

大人ばかりのチームを統率できない力不足を痛感することを避ける。

結果として、部下を子供のままとして扱う(扱いたい)という状態が継続する。

それは無意識的に望んだ結果実現したものだ(というのは厳し過ぎるだろうか?)。

統治ではなく自治を

部下を大人として扱うことは、部下を信頼することである。

特に干渉しなくても、その中で一定程度の規律が保たれるだろうと考えられなければ、自律的な規律は生まれない。

そこに必要なのは「自治」の概念である。

統治ではなく自治を。

それが生き生きとしたチームを作るコツである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

本当に自律的なチームを望むなら、一旦部下に自由にやらせてみればいい。

やや投げやりな言い方にはなりますが、僕はこのように思ってしまうことがあります。

そして、「どうせできないでしょ?」とも。

部下に自由を与えることは、上司である自分が素のままで向き合わなければならない場面を数多く生むことになり、それはそれはマネジメントとしては非常に難易度が高い。

また同時に、自分がマネージャーとして尊重されるかどうかを常に問われ続けることになる。

やや厳しい言い方にはなりますが、これが僕が長年マネージャーをやってきての実感です。

自律的で規律のあるチームには、それなりに自律的で規律のあるマネージャーがいなければなりません。

そうなる勇気と覚悟はありますか?

決して煽っている訳ではなく(そう聞こえるかもしれませんが)、僕はそういう人たちを増やしたいと切に願いながらこのブログを続けています。

同志になって頂けたら幸いです。