アドリブ力を鍛える

UnsplashIlja Tulitが撮影した写真

アクションよりもリアクションの場面の方が多い

マネジメントはアクションではなくリアクションである。

以前このようなことをこのブログに書いた。

今日はそれを少し掘り下げたものである。

マネジメントにおいては、アクションする(能動的な仕事:自分発信)よりもリアクションする(受動的な仕事:部下発信)方が頻度が多い。

となると、リアクションの精度が高ければ、マネジメントが成功する確率は上がることになるわけだ。

では、そのリアクションの精度を高める為にはどうしたらいいのだろうか?

もちろん、予め答えを用意しておく、ということもあるだろう。

ある程度のマネジメントの経験を重ねれば、大体のことは既知のこととなり、それぞれに合わせた対応ができるようになるというのも事実である。

でも、だからと言って全ての答えを事前に用意する訳には(当然ながら)いかない。

そのような時に、マネージャー自身のアドリブ力が試されることとなる。

今日はそんな話である。

未知と既知の空白地帯

さて、アドリブ力を鍛えるためにはどうしたらいいのか?

先に答えを書くなら、「色々なことを経験する」というものになる。

「いやいや、さっきはあらかじめ経験がなければダメって言ってたじゃないか!」

そういう声が聞こえてくる。

確かに。

経験値ほどマネジメントにおいて重要なものはない。

未知のものと既知のものでは、対応する際の心持ちがだいぶ変わってくるし、実際の打ち手の幅も大きく異なる。

でも、(繰り返すが)全てが既知ということはあり得ない。

では、その空白地帯をどのように埋めたらいいのだろうか?

棚にたくさんのものを放り込んでおく

僕なりの回答は、仕事に関係ないことでも取り敢えず経験しておく、ということになる。

そしてこの「経験」というものには、読書や想像というように、実際に体感したものではないものも含めていいものとする。

イメージとしては、空いている棚に取り敢えず色々な出来事を詰め込んでおく、そんな感じである(綺麗に整理できれば尚のことである)。

それを適切に取り出す行為。

それがアドリブ力に繋がる。

アリものとアリものの掛け算

創発性において(もしかしたら何事においても)大事なことは、既存の何かと何かを掛け合わせるということである。

新奇なものを考える必要はない。

取り敢えずの「アリもの」を組み合わせて、何かできないかと考えること。

それも「その組み合わせはないわあ…」というようなものを掛け合わせること。

そこに創発性が生まれる。

アドリブと比喩

これはアドリブにも言える。

僕はよく例えを持ち出して話をするけれど、その例えというのは現在起きているものとは違うシチュエーションを取り出して、それを現実と組み合わせて(もしくは置き換えて)話をするという行為である。

そして、その為には、違うシチュエーションをたくさん知らなければならない。

その為にはたくさんの経験が必要となる。

でも、上記したように、たくさん経験する為にはそれなりの時間が必要となる。

では、これを超克する為にはどうしたらいいのか?

実際の経験と準備の経験の累積

読書したり、想像したりすることで補う、というのが僕の答えだ。

スポーツの世界に置き換えるなら、イメージトレーニングというものが近いかもしれない(これもまた例えだ)。

来週の試合中、実際にプレーをしている中で起きることは、現在においてはわかり得ない(未来のことなので)。

でも、蓋然性が高い状況というのは想像し得る。

だから、そのようなシチュエーションを事前に想定し、準備をしておく。

もちろん、その想像したシチュエーションはその試合において実際に起きるかもしれないし、起きないかもしれない。

ただ、その準備した事実というのは、疑似的な経験として残る。

それを毎週繰り返していく。

すると、実際に試合で経験したことと、準備の中で疑似的に経験したことが、累積していくこととなる。

これが未知の状況が訪れた時のアドリブに繋がる。

完全な新規性を伴うものを実行できるのは天才だけ

そういう意味では、アドリブ力というのは、完全に新規性を伴うものではない、とも言える。

もっと言えば、完全な新規性を伴うものを実行できるのは天才のみである、とも言える。

そうでない我々のような凡人は、準備をしておくしかない。

それが今回僕が言いたいことである。

ネガティブな想定がネガティブを呼び込む? は?

「想定外」という言葉が、日本においては当たり前のように使われる。

でも、本来的には、想定外というのは恥ずべき言葉である(と僕は思う)。

想定というのは、いくらだって事前にできるものだから。

でも、日本社会においては、想定というのは敗北主義に近いものであって、ネガティブな想定をすること自体がネガティブな気を呼び込む、というような(僕からすればスピリチュアルみたいな)ことが、当然のように罷り通っている。

これをやめないか?

想定を

事前の想定をすることは、当日のアドリブ力に繋がる。

もしかしたら、想定をしていたとしても、当日には力が発揮できないかもしれない。

でも、そのデータの蓄積は、必ず将来の似たような場面での振る舞いに繋がってくる。

というか、僕らにできることは、たぶんそれしかないのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

部下の指導をしていても思うのですが、想定の範囲と射程があまりにも短く、かつ都合良過ぎるのではないか、という人によく出会います。

これは神風を待つ思想を僕に惹起させます。

というか、神風を前提にしているような感じ。

ネガティブなことを事前に想定することは、実際にネガティブな事態を呼び込むことにはなりません。

いくつものパターンを想定していた方が、どう考えても有用ですよね?

臨機応変に戦術を切り替えていきましょう。