取り乱さないでいる為には?

UnsplashArwan Sutantoが撮影した写真

関心がないだけ

「ウエノさんは冷静ですね」とよく言われる。

が、その言葉は正しくない。

僕は冷静なのではなくて、ただ関心がないだけなのだ。

というか、マネージャーになって関心をどんどん失っていった、という表現の方が適切かもしれない。

マネジメントという仕事をしていると、本当にたくさんの予想外のことが起こる。

それに一々ダイレクトに反応していたら、こちらの身が持たない。

だから、(自衛の為にも)関心を失くす。

ある種の客観性を持ってコトに当たるようにする。

それが取り乱さない為の秘訣(というほどでもないが)である。

ドキドキしてしまって仕方がない、冷静に判断ができない、という人にはもしかしたら役に立つ話かもしれない。

それでは始めていこう。

真の当事者ではない楽さ

マネージャーになって、楽だなあ、と思うのは、ミスを直接自分が引き起こす確率が殆どない、ということである。

これはやや誇張した表現かもしれない。

仕事におけるミスの大半は部下のミスであり、その対処をするのがマネージャーの仕事である、というのがデフォルトで、自分がそのミスに対して直接関わることは少ない、そんなイメージを僕は持っている。

これは自分が当事者ではないとも言えるかもしれない。

いや、もちろん、「部下のミス=管理職のミス」なので当事者ではあるのだ。

ただ、その事象を直接犯してしまったという罪の意識のようなものはだいぶ薄い、それが僕の実感である。

敢えて言う話ではないけれど…

そして、これは外部に出す話ではない。

あくまでも内面での話である。

外部に出した途端(例えばこのブログもそうだ)、「無責任だ!」という誹りを受けそうな話である。

ただ、どうしても取り乱してしまう人にとっては、そのように考える方が有用なのではないか、と思っているので敢えてここに書いているのである。

事物に巻き込まれてしまうことの非有用性

僕から見える取り乱してしまう人の多くは、その対象(事象)に巻き込まれてしまっている。

自分がその事象に含まれてしまっている。

ましてや、当事者意識を持っていて偉い、なんてことを自分も外部の人も思っていたりもするくらいである。

そうなのだろうか?

僕にはやや疑問である。

というのも、マネージャーの仕事はその事象を解決することであるからだ。

もちろん、その事象を解決するにあたり、自分がそこに具体的に関与していくことが有用である場合もあるだろう。

ただ、そうであるならば、その事象を客観的に(かつ俯瞰的に)見てくれる「別の誰か」は用意しておくべきだと僕は思う。

そうでないと、冷静な判断が下せないからである。

自分が関わっていると、自分を客観的に見られない(当たり前だ)

これはプレイングマネージャー的な議論にも繋がってくる。

選手兼監督が、特にプロの世界において有効でないのは、そこに客観性が担保されないからだと僕は思っている。

自分自身も試合に参加しているので、その試合を客観的に見ることができない(当たり前だ)。

だから、戦略や打ち手がボヤっとしたものになってしまう。

もちろん、そこには自分自身のプライドみたいなもの(バイアス)も含まれてしまうだろう。

結果、シャープな判断ができない。

シャープな判断ができなければ、事象の解決は遠のいていく。

プレイングマネージャーと「判断」の議論

こうやって書いてみると、そんなに難しい話ではないと思う。

でも、多くのマネージャーはこれができないのである。

それは社会的な要請(強制?)という側面もあると思う。

人手不足が恒常化し、マネージャーもプレイヤー的な仕事をしなければならない、それが当然である、そのような風潮。

まあ言わんとしていることはわからないではないし、実際にその煽りを僕も食らったりすることもある。

でも、その度に思うのは、では「判断」は誰が行うのか、ということである。

マネジメント不全(といういつもの話)

上記したように、本来的には判断者は被判断事象から離れている必要がある(と僕は思っている)。

ただ、多くのプレイングマネージャーはこれは物理的にできない。

しかしながら、それをやれと会社(社会?)は要請する。

さて、と僕は思う。

いつもの問題に帰着した、と思う。

結局、マネジメントが上手く行っていないのだ、と。

そして、マネジメントを上手く行かせるためには、ある種の無関心さが必要であるのだ、と。

取り乱した裁判官たちが行う判断(と、その結果到来するディストピア)

冒頭に、僕は無関心になった、ということを書いた。

それは感情を失っていった、という意味ももちろんあるけれど、(ポジティブに言うなら)判断業務に自分の仕事をシフトしていったという風に言えなくもない。

そして、このような意識が取り乱さないでいる為には必要なのだ。

想像して頂ければわかると思うが、裁判官が取り乱していては、その判決なんて信じられるはずがない。

でも、多くの現場で行われているのは、このような事態である。

ましてや裁判官がその事件に関わっているとするなら、そんな人を裁判官にしてはいけないのである。

そういう意味では、あなたが取り乱してしまうのは、あなた自身の属性も関係していないとは言えないまでも、そのような環境があなたの心性に(強めの)影響を与えていると言えなくはないのではないか。

となると、是正すべきは、結局のところマネジメントに対する考え方(捉え方)になるような気がしている。

やや大きな話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

冷静さと無関心さ。

冷静でいる為には、無関心であることが必要です。

これは「マネジメントは非人間的であるべきだ」というニュアンスにも繋がるかもしれません。

多くのマネージャーは感情的過ぎ。

そしてウェット過ぎ。

それを社会もポジティブなものとして受け止め過ぎ。

その結果到来した、マネジメント不全社会。

それが我々が生きる現代ニッポンです。

ディストピアを生き抜いていきましょう。