測定原理主義になっていないか?

UnsplashWilliam Warbyが撮影した写真

何事も数値化して判断を行うこと

物事を客観的に見る為には数値化が有用である。

これに異議を唱える人はあまり多くないと思う。

でも、何だか最近はこれが行き過ぎているように感じるのだ。

何事も数値化して、それをエビデンスと見なし、判断を行うこと。

それをこの記事では「測定原理主義」と名付けたいと思う。

測定自体は良いことだ。

でも、そこに恣意性が働く時、数値というのはいかようにも読むことができるようになってしまうのも事実である。

当然ながら、判断も歪められてしまう。

今日はそんな話だ。

感覚で仕事をするのは論外だとしても

マネージャーの中には、「数字で説明しろ」と言ってくる人がいる。

これはアプローチとしては悪くないと僕は思っている(「数値化に拘ろう」という記事を僕も書いているくらいだ)。

というか、現状ではあまりにも感覚で仕事を(特にマネジメントを)している人が多い。

だからそこに客観的な判断軸(数字)を入れる。

それによって、判断から恣意性や属人性を取り除く。

悪くない。

でも、何だか最近はそれが行き過ぎている場合があるように感じるのである。

もう少し正確に言うと、集められた数字自体に恣意性が既に働いてしまっていて、数字が純粋な数字ではなくなってしまっているような気がするのだ。

濃い目の下味

純粋な数字というのは、何の味もついていない無味無臭のものである。

誰の味付けもされておらず、文字通りただの数字である。

でも、最近の傾向として、その段階で既に下味がついているような気がするのだ。

それも結構濃い目の

そうやって、「ある意図」を基に集められた数字というのは、数字本来の持ち味を発揮できない。

歪められた数字である。

自分が進めたい議論の方向に都合の良い数字だけを集めているというか。

そうやって「エセ客観性」を装う。

それがどうも流行っているような気がするのである。

数字は見せ方次第でどうとでもなる

数字というのは、切り取り方に過ぎない。

断面をどう見せるか、それはプレゼンをする側によってある程度左右できるものだ。

それ自体が悪いということではない。

ただあまりにも行き過ぎているのではないか?

そしてやっている本人もそこまで悪気はないのではないか?

そこに大きな問題があるような気がしている。

評価されるものだけやってない?

「エビデンス・ベースド」というのは、改竄の動機となる。

そう言ったら、言い過ぎだろうか?

ある基準を基に、あなたの成績が測定されるとする。

例えば営業であれば、何らかのKPIに基づいて、あなたの評価が決まるとする。

その際に、そのKPIの数字だけを見て、仕事をしてはいないだろうか?

というか、KPIにカウントされるように、基準を緩めたり、考え方を捻じ曲げたり、どうでもいいことをやったり、していないだろうか?

ちょっとした甘い気持ちの累計

僕は成果を基に仕事をすることが大事だと常に言い続けてきた。

ただ、その成果というものが、ある種の改竄を基になされているのであれば、何の意味もない。

そしてもっと言うと、その改竄には大きな悪意はないのだ、きっと。

それも個人単位だけでなく、チーム単位、会社単位でも。

個人個人はただ求められることだけを、それぞれの立場で一生懸命にやっているだけである。

いや、改竄というと大げさであるが、ちょっとした線引きの変更、グレーラインの拡張、によって、求められている項目の数値が上がるのであれば、誰も不幸にはならないのでは?

みんなその数字が高い方が望ましいから。

評価され、計測し易いものだけが計測される

でも、その数字を上げることに執心するあまり、零してしまうものがある。

もしかしたらそれは長期的に見れば有用なものかもしれないし、仕事をする満足度に直結するものかもしれない。

ただ、残念ながらそれは計測されない。

評価され、計測し易いものだけが計測される。

それ以外はやらない。

これが測定原理主義の正体である。

「客観性」という罠

世の中というのは複雑である。

それはビジネスも同様だ。

だから計測できないものはたくさんある。

もちろん計測し、客観性を持たせたいという欲求は僕にだってある。

属人性や感覚・経験の領域を狭くしたい、そういう想いは確かにある。

でもさ、というのが今日の話である。

集めやすいものだけを恣意的に集めたものに何の意味があるのだろうか?

そしてそれは当初意図した方向に向かっていると言えるのだろうか?

「透明性」や「説明可能性」って?

成果主義の適用方法を一歩間違えると、測定原理主義に陥る可能性がある。

これは心に留めておいた方がいい。

自分の処遇に直結することしかやらなくなるからである。

それが例え陳腐なものであったとしても。

そして本人がその陳腐さに嫌気がさしていたとしても。

合成の誤謬。

透明性。

説明可能性。

それによって失われるものがある。

クリーンな世界

一見クリーンに見える世界は、全然クリーンじゃない。

でも、みんなクリーンであるフリをしている。

本当は気づいているのに。

いや、それにすら気づいていないのかもしれない。

現実をシンプルに表現したい欲求。

二元論。

何でもいい。

でも、そこには自己懐疑が必要である。

何かを掬えば、零れるものがある。

上澄みだけでは、全てを理解することはできない。

そんなの当たり前の話なのでは?

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

数値化は知的に見えますが、反知性的にもなり得る。

今日書きたかったのはそんなことです。

透明性説明可能性エビデンス・ベースドという言葉が頻繁に使われるようになった結果、それに合わせた数値しか集められないようになっている、そしてそれは全体を必ずしも捉えていない、そんな違和感がずっと拭えません。

でも、数値がそこにあるので、有無を言わせない(言えない)というか。

世界を切り分けて単純化することは悪いことではありません。

でもどこか頭の片隅に、それによって零れ落ちるものがあることは意識しておく必要があります。

間違っても全能だと過信してはいけません。

謙虚かつ畏れを持って、数字と向き合っていきましょう。