タコツボ化を防ぐ為には?

UnsplashMaciej Gerszewskiが撮影した写真

慣性の法則に従い、組織はタコツボ化していく

組織はタコツボ化するものだ。

これは慣性の法則のようなもので、放っておいたらそうなるものである。

良いとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。

だから、意識的にタコツボ化しないように、仮にしたとしてもその度合いを薄められるように、日々心掛けていなければならない。

そして心掛けだけでは心もとないので、何らかの仕組みを作らなければならない。

さて、どうするか?

成果主義やジョブディスクリプションの流れとは反するかもしれないけれど、業務領域の拡張がそのヒントになる、と僕は思っている。

よくわからないかもしれないが、とりあえず始めていく。

成果主義には自分の成果だけを求める人間を生む側面がある

成果主義によって、自分が求める成果だけを追えばいい、という人が増えた。

そしてこれも良いとか悪いとかいう話ではない。

制度設計上、そうなるようになっているのが成果主義というものである。

だから、「成果主義が悪い!」ということではなく、「成果主義にはそのような側面(副作用?)がある」というように捉えなければならない。

ジョブディスクリプションには「それは私の仕事ではない」と主張する人間を増やす側面がある

ここにジョブディスクリプションが乗っかってくる。

業務領域を明確に定め、ジョブによって人を雇用していく。

それ自体は日本企業に残存する「曖昧な仕事」を排除し、個々人の目に見えない貢献を可視化する為には必要なことであると僕も思っている。

ただ一方で、「それは私の仕事ではない」という人を結果的に増やすことには繋がるだろう。

相互不可侵条約によって、個人は分断されていく

そして、これも別に良いとか悪いとかいう話ではない。

ジョブディスクリプションに定められた仕事以外の仕事に対して、「それは私の仕事ではない」と言うのは、その人が非情である訳ではなくて、当然の流れなのである。

だから、ここをボヤいていても仕方がない。

結果として、個々人の仕事は細分化(専門化)され、個々人はそれぞれ個別化していく。

隣の人が何をやっているのかわからない、という現象が生じることになる。

また、相互不干渉(不可侵)的な状況が望ましい、というような雰囲気も生まれてくる。

領土内に踏み込むと、極度に防衛的になる人も出てきたりもする。

結果として、個人は分断され、組織はタコツボ化していく。

良いとか悪いとかではなく、制度がそうなっているだけ

繰り返すが(そしてしつこいが)、これは良いとか悪いとかそういう話ではない。

そういう方向になるようにただ制度設計されているだけだ。

そしてそこで働いている人に悪意がある訳でもない。

そのような制度において、効果的かつ効率的に働こうとすると、結果としてそのような動きになってしまう、それだけの話なのである。

分断は望ましくない(生産性を阻害する)と僕たちは(無意識的に)思っている

さて。

でも、同時に多くの人はこのようなタコツボ化は望ましくない、とも思っている。

制度的にはそうならざるを得ないような方向に進んでいるのに、そうはならないで欲しいと願うのは、ないものねだりなのだろうか?

まあそうなのだろう。

ただ、無意識的にせよ、そうならないで欲しい、そうなると組織の生産性を阻害すると、僕らは思っているのも事実である。

個々人が細分化され、分断されるような制度設計の中で、それでも僕たちは個別化しないように、協同できるようにした方が、結果として生産性が高い仕事ができるのではないか、とも思っている。

この矛盾。

さてさて、というのが今日の話である。

分断を緩和する為には、くっつけるしかない

冒頭に業務領域の拡張がそのヒントになる、と書いた。

これは何か突飛なことを言っている訳ではなくて、ただの論理的帰結である。

個々人が分断され、その分断が生産性向上の阻害要因になっているとするなら、その分断を是正(緩和)しなければならない。

分断の是正(緩和)というのは、それぞれをくっつける、ということである。

ではそのくっつけ作業をどうやってやるのか?

アンオフィシャルな人間関係がその隙間を埋めていた

従前であれば、それを業務外のもので補っていたのが日本企業であった。

例えば飲み会や社内旅行・社内運動会といったようなものだ。

それによって、同僚や上司の会社人としての側面だけではなく、プライベートな側面を垣間見ることができた。

そして、そのようなアンオフィシャルな人間関係が、個々人の分断の度合いを緩和していた。

「やることには納得ができないけれど、あの人が言うなら協力するか」であるとか「私の仕事とは直接関係ないが、あの人から頼まれるなら仕方ないか」というような、緩衝地帯での仕事が行われていた。

じゃあ、社内旅行や社内運動会を復活させればいいのかというと、それも違うような気がしている(最近では実際にそのような動きも見られるが…)。

もう少し令和仕様というか、アップデートしたものが求められるはずだ。

そしてそのヒントとなるのが、チーム単位での仕事であると僕は考えている。

ユニット単位のジョブディスクリプション

個々人の分断化された状況は変わらないだろう。

ただ、同時にチーム単位でのジョブディスクリプションを定めることはできるはずで、個人の目標とチームの目標を同時に追うことも可能であると僕は思っている。

そしてそのチームは固定的なものではなく、プロジェクトチーム的なものになるだろう。

そのような「ユニット単位」の仕事「ユニット単位」のジョブディスクリプションができれば、「内と外」の論理の弊害を少しは緩和することができるはずだ。

そういう意味では、チームというのは、現在定められているイメージよりも小さな単位(ユニット)になるのかもしれない。

個人ではなく、ユニット単位で仕事をしていくこと。

それが集まってチームになること。

それがタコツボ化を防ぐヒントになるような気がしている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

今日の話はまだ思いつきレベルのものです。

でも、以前から書いているように、もう少し共同体的なものがあってもいいのではないか、と僕は考えています。

それも昭和的ウェットなものではなく。

その1つのヒントがユニット単位のジョブディスクリプションです。

課(チーム)よりも、もう少し小さな、でも個人ではない単位での職務定義書。

それがあれば、「それは私の仕事ではない」という人たちを減らしながら、でも同調圧力的なものを防ぎながら、仕事ができるのではないか?

そんなことを考えています。

何らかの参考になれば幸いです。