考えない人たち(考えない方が楽だから)
考えない方が楽とすらたぶん考えていない
マネージャーという仕事を長くやっていると、「考えない人(特に部下)」に関する相談を受けることがある。
「なぜ、考えて行動できないのか?」と。
ここには「受け身」的な要素も含まれていることが多い。
「なぜ、彼(彼女)らは、基本的に受動的であり、自ら考えることをしないのか?」と。
その気持ちはよくわかる。
そしてそこにある憤りも。
でも、何年もマネージャーをやってきた僕が思うのは、「考えない方が楽なのだろうな」ということである。
もう少し辛辣な言い方をすると(これでも十分辛辣だとは思うが)、「自分が考えていないとは思っていないのだろうな(そもそも考えるという状態がどういうものなのか、わからないのだろうな)」ということになるのかもしれない。
そして、それを踏まえると、部下に対して自発性を期待するよりも、型に嵌めた作業をやって貰った方がいいのではないか、ということが頭をもたげてくる。
今日はそんな話である。
「なぜ考えないのか?」に拘っても意味がない
自発性(自律性・自立性)の議論。
部下にまつわる話になると、必ず出てくるのがこの話題である。
そしてそこには間違いなく否定的な意味が込められている。
もちろん、僕もその例外ではない。
というか、例外ではなかった、という過去形の方が適切かもしれない。
僕も過去散々そのことについて悩んだけれど、もうあまり気にしていない(そういうものだから)というのが現在の状態である。
そう思うようになったのはなぜか?
多くの部下に接した結果とも言えるし、その方がマネジメントとして上手く行きやすいと思ったからとも言える。
表現が難しいのだけれど、根本である問い(なぜ自ら考えないのか?)を考えてもどうにもならない、「考えないものは考えないのだから、そこに拘泥していても仕方がない(どうせ考えるようにはならないのだし)」、という感覚なのである。
それはある種の諦めとも言える。
でも、だからと言って、マネジメントにおいて必ずしもネガティブな訳でもない。
それが今日の趣旨に繋がってくる。
考えない理由
これは他者に対するスタンスにも関係している。
僕は「他者は変わらないものだ」という冷めた人間観を持っている。
だから、どんなにマネージャーが手を尽くしたとて、考えない人は考えるようにはならない(それで変わるなら既に変わっているはずだ)、というのがベースにある。
ただ一方で、「何で考えないのだろうか?」という疑問は湧いてくる。
「考えた方が仕事(もしかしたら人生も)は楽しいのに、なぜ考えないのだろう?」とは思う。
そして、僕が辿り着いた答えは、その方が楽だから、というものである。
もう少し表現を変えるなら、責任を回避できるから、ということかもしれない。
また別の言い方をするなら、失敗する自分と向き合わないで済むから、ということかもしれない。
考えたものを否定されないように、誰かが考えたものを否定する
考えるということには、責任が伴う。
そしてこの責任は他者に対してもそうであるが、自身に対しての要素の方が強い。
ただその主体的に考えたものを、現実というフィールドで実践すると、失敗することもそれなりに多くある。
結果、自分の考えが否定されたような気持ちになる。
その自分と向き合わなければならなくなる。
それはなかなかにキツい作業ではある。
その考えに自信があった場合には、そのキツさは倍増する。
多くの人が考えない(ように見える)のは、この敗れた(本当は敗れた訳ではないのだけれど)自分と向き合わなければならないからだと僕は思う。
もちろん、誰だって失敗はしたくないし、否定もされたくない。
では、失敗しないように、否定されないようにする為にはどうしたらいいのか?
彼(彼女)らはこのように考える。
そして次に取る戦略は、誰かが考えたものを否定する、というものである。
考えないと無敵
どのような考えにも弱点はある。
それをただ指摘する。
そうすると、自分は全能であるかのような感覚が得られる。
そして、間違っている点を間違っていると指摘することは、容易いことでもある。
手っ取り早く、効率的に、自尊感情を満たすことができる。
また、被害者の立場から強者を攻撃するというようなルサンチマン的な立ち位置も確保することができる。
それを繰り返す。
そうすると、考えるということが何だったのか、どういうことなのか、それすらわからなくなる。
自分が考えていないという自覚すらなくなっていく。
こうして、権利の行使だけをして、義務を履行しないたくさんの人たちが生まれる。
結果、できたのが現代日本である。
AIの方がマシ
そのような環境の中で、マネージャーは仕事をしなければならない。
そこで「なぜ考えないのだ!」と憤っても仕方がないように僕には思える(それがデフォルトだから)。
だから、僕はそのような人たちにはそのような対応をする。
「本当はAIに置き換えたいな」と思いながら、誰だってできるような汎用的な作業をやってもらうようにする。
そこに彼(彼女)らの意見や意思は求めない。
ただ淡々とやるべきことをやって貰うようにする。
それは本意ではないけれど、こちらだって慈善事業をしている訳ではないのだ。
マネージャーとしてやるべきことはやる。
でも、それ以上のことはそれ以上のことだ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
マネージャーになってから、(不遜ではありますが)人というのはこんなにも考えない生き物なのだなと思うことが増えました。
そして、誰かの批判をこうも容易くするということも。
自ら考えず、アイディアを外部に出さず、他人の粗探しばかりをしていると、簡単に全能感を得ることができます。
でも、そのような人が増えると、社会全体としてはシュリンクしていってしまいます(何を言っても批判されるから)。
結果として、全能感を得たと思っている人も、新しいアイディアを享受できなくなり、共に貧しくなっていきます。
それが現代の日本なのでは?
考えないのはいいですが、批判だけするのはやめて頂けないでしょうか?
そんなことを思ってしまいます。
リスクを取る人に拍手を。
もしくは黙認を。
こんなことばかり書いていますが、引き続き読んで頂けたら幸いです。