ダサいかどうかという評価軸

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正しいと信じるものが成果に結びつくとは限らない難しさ

初任のマネージャーであれば、自分のマネジメント手法が正しいかどうかについて不安になることもあると思う。

五里霧中というか、成果が明瞭にわからないような状況の中でも走り続けなければならないのがマネジメントというものである。

そして、ある手を打ってから効果が出るまでにはタイムラグもあるので、どの手がどの効果に紐づいているのか、というのも不明確になりがちでもある。

もう少し言うと、自分が考える「正しさ」というものが、メンバーや上司・組織など、そこにいる人達にとって正しいものであるとは限らないし、自分が正しいと思うことをやったとしても、成果に結びつくとは限らない(むしろ逆効果になることすらある)というのがマネジメントの難しさでもあると思う。

そんな時にどのように自分の足元を固めるか?

ブレずに仕事をする為にはどうすればいいのか?

今日はそんなことを書いていく。

正しさ<ダサさ

結論から言うと、「正しさ」よりも「ダサさ」に評価の力点を置くと良い、と僕は考えている。

もちろんこの「ダサいかどうか」というのは人それぞれである。

正しさと同じように、ダサさというのも千差万別である。

それでも、である。

正しさよりは汎用性があるし、もう少し柔らかい概念であると僕は考えている。

意味がわからないと思うので、もう少し詳しく書いていく。

正しさを突き詰めると、正しくない奴が許せなくなる

マネジメントにおいて大事なのは自分を信じることだと僕は思っている。

要は色々な外部要因に左右されず、雑音に惑わされず、自分が信じるやり方を貫き通す先に成果がついてくるものだと僕は考えている。

ただ同時に、自信がなければ、それは実現不可能でもある。

初任マネージャーであれば尚のことだろう。

ここで正しさというものを評価軸の中心に据えるとどうなるだろうか?

人は間違える。

マネージャーも間違える。

その時には正しいと思ってやったこと、それもかなりの自信を持ってやったことも、思いもよらぬ反応を引き起こし、頓挫してしまうことがある。

自分は正しいと思っていたのに、そう思うことになる。

結果として、「なぜこれが正しいと思わないのだろうか?」「これが正しいと思えないのはあいつら(組織・上司・部下etc.)が悪い」というような思考回路に陥ってしまう。

そして同じようなことを繰り返してしまうのだ。

正しさに囚われるな

僕がマネジメントを長くやってきて思うのは、自分が思う正しさを曲げることは妥協と同義ではないけれど、自信がなければそのように感じてしまう、ということである。

「屈した」みたいに感じてしまう。

そうなると、次に自分がやろうとすることは、リベンジ的な性格を帯びてしまいがちになってしまうのだ。

「自分の正しさを証明してやろう」というような邪な思いが生まれてしまうのである。

それは良くない。

あくまでも戦略は純粋な戦略であるべきである。

そこに思いは不要である。

効果的にやる為にはどうすべきかに集中すべきなのである。

ただ、それが正しさというものを中心概念に据えるとなかなかできなくなってしまうのだ。

ダサい人間ではないと信じられることが重要

これに代わる概念が「ダサさ」である。

自分も人も「ダサいかどうか」で判断するようにする。

正しくてもダサいことはあるし、間違っていてもダサくないことはある。

長くマネジメントをやっていく為には、自分がダサい人間ではないと思えることが重要なのである。

これが自分が正しい人間であると思うと、窮屈になるのだ。

違いがわかるだろうか?

ダサいことは瞬時にわかる

今の僕は正しさというものを二の次に考えている。

もちろん正しさは重要な概念である。

でも万人には万人通りの正しさがある。

それを統一することはできない(それこそ思想教育みたいなディストピアになってしまう)。

そして仮に統一されたとしても、それが本当に正しいかどうかはある程度の時間を経ないとわからない。

更に悪いことに、時間を経たとしても、結果が出ないことだってある。

でも、ダサさは違う。

ダサいかどうか、というのは瞬時にわかる。

時間を待つ必要がない。

ダサいやり方というのは、最初期からダサい。

仮にそれが上手くいったとしても、ダサいやり方であることは変わらない。

そしてその判断軸というのは、論理よりも感覚に近いものである。

センスや勘に近いもの

正しさを判断するには思考の通路を通らなければならないけれど、ダサさは瞬時にわかる。

これはセンスと言い換えても良いし、勘と言い換えても良い。

これを拠り所にする。

ダサいことはやらない、と心に決める。

これでマネジメントのやり方は少し絞られるはずだ。

美学ほどの高尚さはいらない

これはナルシシズムに近い性質ではあると思う。

耽美主義的な要素がないとも言い切れない。

でも僕が考える「ダサさ」というのはもっとカジュアルで、本能的で、テキトーなものである。

「美学」という程、高尚なものではない。

もっと独断的で、偏見に満ちているものである。

でも、それでいいのだ。

そこにこそマネジメントの個性が生まれるのだ。

ダサさの海に飛び込もう

正しさの呪縛から逃れて、ダサさの海に飛び込むと、マネジメントという仕事は楽になる。

自分にも自信が持てるようになるし、自分というものを信頼できるようになる。

「オレはダサいことだけはやらない人間である」という自己紹介ができるようになる(これは「自分は間違ったことはやらない人間である」というものとは大きく異なる。前述したように間違ったことはどうやったってやってしまうからだ)。

その違いは大きいはずだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

ダサい人には誰も付いてきません。

それが僕が言いたかったことです。

もちろん、ダサさの基準は千差万別です。

ただ、正しさは自分すら欺けるのに対し、ダサさはそうではありません。

それが判断をする時の最後の拠り所となります。

いい仕事=ダサくない仕事のことです。

自分の感覚を信じていきましょう。