偉くなることに意味がない時代のマネジメント

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上昇志向のないマネージャーとその部下たち

皆さんは上昇志向をお持ちでしょうか?

また、皆さんの部下はどうでしょうか?

今日はそんな書き出しから文章を始めてみる。

僕は上昇志向を持たないし(かつてはあったと思う)、部下も持っている人は少ない(かつてはもう少し多かったと思う)。

もちろん職場によって多少の差異はあると思うけれど、大体の傾向はこんな感じであると僕は思っている。

そんな上昇志向のないマネージャーが、上昇志向のない部下をどのようにマネジメントすればいいのか?

それで高い成果なんて出せるのだろうか?

仕事論、価値観みたいな話になってしまうかもしれないけれど、今日はそんなことを書いてみようと思う。

マネージャーは割に合わない

権利と義務。

メリットとデメリット。

コストとベネフィット。

僕は割と計算高くこの辺のことを考えて仕事をしている方だと思う。

そんな僕が思うのは、マネージャーというのは「どう考えて割に合わない」仕事であるということだ。

ましてやもっと忙しく働いている方であれば尚のことだろう。

虚しくなってしまった

これが昭和であれば違ったのかもしれない。

組織内における上昇には、承認欲求の充足という相応の報いがあったのだろう。

自尊心も満たされ、金銭的にも不自由がなく、社内での権限(パワー)もあり、ある程度魅力的なものであったのだろう思う。

もちろん現代においても、そのようなものに価値を置く人は存在するし、僕だってそういうものに全く関心がないと言えば嘘になる。

でも、である。

今までよりは関心が薄れてしまった、というのが本当のところだ。

その原因は何なのか?

一言で言うと、虚しさ、であると思う。

余はもう満足じゃ

元々虚無的な傾向がある僕は、仕事に取り組む上で、ある程度自分を騙しながら、仕事に励んできた。

そして実際に給料も上がり、そこそこの生活ができるようになった。

自尊心もそれなりに満たされた。

では、その次は?

というのが、現在の状況である。

意味とは? 価値とは?

マネージャーという仕事を自分のキャリアの中に組み込むことを想像していなかった僕は、気が付けばもう6年以上もマネジメントという仕事をやっている。

過去も向いていると思っていなかったし、現在も向いているとは思っていない。

実際に、飽きというか、もうある程度自分の限界値みたいなものも見えてきている。

そんな僕が以前のように、ある程度高いモチベーションを持ちながら(持っているように演技をしながら)仕事をすることが難しくなってきている。

僕はこれ以上上昇することにあまり価値を見い出せていない

上級マネージャーになることになることに何の意味があるのだろうか?

承認欲求以外に、マウンティング以外に、何の価値があるのだろうか?

僕はそれを見つけられないままである。

デメリットが大きすぎて、メリットと釣り合わない

以前の僕がある程度の上昇志向を持っていたのは、承認欲求ももちろんあったとは思うけれど、自分よりも劣っていると思う人に指図されることに我慢がならない、という要素が大きかったと思う。

でもそれを証明する為には、自分が上昇するしかない。

だから上昇しよう。

これが現在はなくなってしまった。

僕は自分の能力(社会的不適合者であると自認していたけれど、それなりに社会でもやっていける)に自信が持てたし、他者からも一定程度の信認も得られることがわかったので、そこにもうあまり価値を置く必要がなくなってしまった。

そして上を見ても、楽しそうに仕事をしている人は皆無で、尊敬すべき人もいない。

地位も名誉も金銭も、それに伴うデメリットに見合うとは到底思えない。

それが僕の現在地である。

そこそこの処遇を得る為にはかなり頑張らなければならないのだけれど…

それはたぶん部下も同様なのだろう。

彼ら(彼女ら)と話をしていると、仕事は「そこそこ」で構わない、という感性を持っていることを痛切に感じる。

もちろん「そこそこ」に仕事をする為には、「そこそこ」の処遇を得る為には、「かなり」の努力が必要なのではあるのだけれど、「それ以上」の努力をする意味がわからない、という感覚は僕も同じである。

それは別に「幸福度はある一定程度の年収以上になると頭打ちになる(むしろ下がる)」、という研究を持ち出すまでもなく、実感としてそのように感じる。

「一生懸命仕事をすることに何の意味があるのか?」と正面から問われた時に、僕には返す答えがないのである。

僕もそのように思うから。

そんな僕がどのようにマネジメントをしているのか、を書いて話を終えようと思う。

ツケは自分に回ってくる

対象は若手社員である。

僕の言い分はこうだ。

「その方が可能性が拡がるから」

これは「なぜ勉強しなければいけないのか?」という問いに対する答えに似ているような気がする。

別に勉強しなくてもいいし、仕事をしなくてもいい。

ただそれに対するツケは自分で払わなければならない。

誰かのせいにしてはいけない。

それだけの話である。

生きる虚しさを追い払うために

もちろん「嫌で嫌で仕方がない」というのであれば話は別である。

ただそれでも何か別のことはしておいた方が良いと思う。

偉くなる必要はない。

でも、何も他にやることがないのであれば、まずは仕事を全力でやってみればいいと思う。

それで自分の実力がわかるし、相対的な立ち位置が鮮明になるし、処遇がどの程度になるかもわかるだろう。

その後の話はその後の話だ。

僕が「いい仕事」に価値を置くのは、「いい仕事」をしているという自己暗示(効力感)は生きていく上で必要なことであると思うし、それによって虚しさの沼から自分を遠ざけることができると思っているからである。

そしてもしかしたら、偉くなることでしかできない「いい仕事」もあるかもしれないのだ、と言い添えて今回の話を終えようと思う。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

欲望がある人を羨ましく思います。

「そんなの今が幸せだからだよ」というツッコミがありそうですが、幸せ不幸せに関係なく、僕は昔から対象への関心が非常に薄く、何かに駆動されることがあまりありません。

淡々と虚しさを感じながら日々を生きています。

「人生は願望だ。意味じゃない」

チャップリンはそう言いましたが、願望も意味も持たない人間からすると、人生とは虚無でしかありません。

そんな僕からすれば、出世というものが情熱を燃やすべき対象であるはずもないわけです。

「人生は暇つぶしだ」

そう言ったのはパスカルだったと思いますが、こちらの方が僕にはしっくりきます。

タナトスに負けないよう、自分を騙しながら生きていきましょう。