失敗はデータ採取に過ぎない

Photo by Julia Koblitz on Unsplash

無謬性の原則を乗り越える為に

失敗を認められない人は多い。

でもそれによってアップデートする機会を逸している。

マネージャーの仕事をしていると、このことを強く感じる。

以前「無謬性の原則と日本社会」にも書いたことであるが、「失敗」を想定すらしてはいけないことが、日本組織の大きな問題点であると僕は考えている。

これははっきり言って現代的ではない。

現代は小さなミスを起こしながら、フィードバックを糧に、アジャイル的にアップデートしていくことが「普通」である。

それは何も製品に限ったことではない。

組織構造だってそうあるべきなのだ。

今日はそんな話をしていく。

失敗が怖いのは認知的不協和を解消したくなるから

失敗が怖い。

その気持ちはよくわかる。

というか、失敗を「認める」のが怖いのである。

失敗を認めることによって、完全だという自己像が崩壊するからである。

他者からの視線もそうであるが、何よりも自分が許せなくなってしまうのである。

いや、許せなくなるというか、認知的不協和を解消したくなってしまうのである。

反証可能性がないものは科学ではない

これはもう本能みたいなものであるから、「そういうものだ」ということをまず一旦受容する。

「オレは今認知的不協和を解消しようとして、変な理屈をつけて、失敗を失敗ではなかったことにしようとしている」と思うことにする。

そこには客観性が必要となる。

ポパーを持ち出すまでもなく、反証可能性がないものは科学ではないのだ。

「自分が屁理屈をつけて解消しようとしているその認知的不協和は、反証可能性があるものなのだろうか?」、そうやって考えることを習慣づける(それはとても難しいことではあるが)。

そうやって、本能とうまく付き合っていくしかないのだ。

間違いを認めるのは誰だって恥ずかしい。

でも、それができなければ、アップデートすることも不可能なのだ。

失敗というのはそんなに大それたものではない

僕は部下に「失敗はデータ採取に過ぎない」ということをよく言う。

これは「失敗を恐れるな」という話と似ているようでちょっと違う。

「失敗を恐れるな」と言っている時点で、失敗を意識し過ぎている。

失敗というのはそんなに大それたものではない。

1つの事象に過ぎない。

ただのデータに過ぎない。

そういうイメージの違いである。

スポーツなら当たり前のことなのに…

スポーツでも楽器の習得でも何でもいいのであるが、僕たち人間はトライ&エラーを繰り返すことで上達していく。

最初からリフティングできる者はいないし、リフを奏でられる者もいない。

何度も失敗をするのが当たり前である。

その時に「失敗を恐れるな」なんてイメージはしないだろう?

そうやって僕たちは微修正を繰り返しながら、前に進んでいくのだ。

「ここがちょっと違ったから、次はこうしてみよう」「ああ、やり過ぎた。もう少し元に戻そう」という繰り返し。

その積み重ねが、向上に繋がっていくのである。

そしてそれら個人の集合体が組織になり、組織も試行錯誤を繰り返しながら前に進んでいく。

進化とは試行錯誤と突然変異の歴史である

これは進化論のイメージに近い。

従前からの集合知を踏襲しながら、自分の代でも試行錯誤を繰り返すことで、環境適応を行っていく。

時には突然変異が起きて、一気に状況が改善するかもしれない。

一方、失敗した事業は淘汰されていく。

こんな感じである。

それを「失敗してはいけないのだ」と意識してしまうと、途端に動きが鈍くなってしまう。

至らないことは悪いことではない

もっと言うと、成功というのは、頭で考えて導ける訳ではないのだ。

会議室でブレストをいくら繰り返したとて、市場に問うまでは本当の価値は分かりえない。

取り敢えず世に出してみて、その反応と共に改善をしていく。

至らない部分は至らないと認める。

というか、至らないのが当たり前なのである。

至らないことは悪いことではないのだ。

量よりも質?

営業も中堅くらいになってくると、「量よりも質だ」なんてことを言いだしたりしてくる者がいる。

自分では仕事ができると思っている人に限って、そんなことを持ち出してくる。

質が高い方がいいのは間違いない。

でも、量をやらなければ質も高まらないのである。

それはなぜか?

単純に試行回数が多くなると、それだけ得られるデータ量が増えるからである。

成功率に囚われるな

これはディープラーニングをイメージしてもらえばわかりやすいと思う。

少ない試行回数で最適な状態(質)に辿り着くのは困難(というか不可能)である。

もちろん「過学習」という状態になることもあり得るけれど、残念ながら人間の体力による限界制約を考えると、そこまで試行を繰り返すまではいかないのが通常である。

質を求めるのは失敗が怖いからだ。

成功「率」を求めたくなるからだ。

「月50回の商談で15件成約しました(成約率30%)」という人と、「月100回の商談で20件成約しました(成約率20%)」だったら、後者の方が評価されるべきだろう?

でも、多くの人(マネージャー含む)は前者を「効率的だ」なんて言うのである。

検証すること。改善すること。

もっと言うと、時間軸を忘れている。

後者はこの後指数関数的に成長していく。

機械なら当たり前のことが、人間や自分のこととなると忘れ去られてしまうのである。

何度も失敗しよう。

それを糧に次へ進もう。

大事なのは検証し、改善することだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

組織の中で働いていると、本当に「検証」という概念がないな、と思ってしまいます。

検証がなければ、ずっと僕たちは0から物事を作り続けるしかありません。

人類の進化は先人たちの知恵をアップデートしていくことで成し遂げられています。

「巨人の肩の上に立つ」ことで僕たちは次の段階に進むことができているのです。

そこには無数の屍が横たわっています。

失敗を活かしていきましょう。