被害者意識高い系

UnsplashIlayzaが撮影した写真

私は悪くないという病

何事につけても被害者面する人が苦手だ。

でもこの手の人はとても多い。

そしてマネージャーという仕事柄、否が応でもこの種の人と関わりを持たざるを得ないのが辛いところである。

「私は悪くない」「私がこのような不幸な状況にあるのは、他者(周囲)のせいである」というスタンスで世界を見る人達。

今日はそんな被害者意識高い系の人についての話をしていく。

それでは始めていこう。

「100%の善」はあり得ない

以前にも書いたことであるけれど、僕はこの世に存在する限り、「完全に無罪」ということは起こりえない、と思っている。

自分は100%「善」の立場で、他は100%「悪」の立場である、ということはあり得ない。

その間のグラデーションの中に、着地点がある。

そのような世界観を持って日々生活をしている。

被害者意識100%

もちろん「理不尽だなあ…」と思うことはある(それも結構な頻度で)。

それでも、何かしらの要素は自分にも責任があると思って暮らすようにしている。

そんな僕が、ある時からマネジメントという仕事をすることになった。

すると、それまではあまり意識していなかったのだけれど、「被害者意識100%」という人が世の中には存在していて、それも結構な確率で自分の部下になるという現象が起こるようになった。

ずっと被害者のまま、じっと耐えるのは美徳なのか?

これはなかなか難儀な事態である。

面談をしていても、出るのは他者の悪口ばかり。

世界の全てが敵で、自分はそれらに虐げられているという自意識。

僕はその毒素みたいなものをたくさん浴びて、本当に生命力が削られるような気分になる。

もちろん、言い分の内の数割は正しいことなのだろうと思う。

実際にそのような不幸なことは過去あったし、今もあり続けているのだろうと思う。

同情するし、共感もする

でも、それを受けて、その人は何かするわけでもないのである。

ただ、じっとその状況に耐えているだけ。

そこに僕は納得ができないのだ。

相応の血を流すなら

例えば、その状況を変えるべく相手と話をするとか、自分なりに努力をするとか、何らかの改善に向けてのアプローチをして、その結果状況が変わらないなら理解はできる。

表現が適切かはわからないけれど、その人が「それ相応の血を流している」のであれば、僕は喜んで力を貸す。

でもそうでなく、安全地帯から「周囲が悪だ!」と叫んでいるだけなら、それはその人にも責任があるのではないのか、と思ってしまうのである。

厳しいだろうか。

冷たいだろうか。

まあきっとそうなのだろう。

それでも、僕は自分のスタンスを変えようとは思わないのだ。

エンドレス不幸

被害者意識というのは麻薬である。

最強のカードである。

相手を黙らす為には、「自分は虐げられている。お前は悪魔だ」という構図に持っていくのが手っ取り早い。

ましてやポリコレハラスメント警察が跋扈している現代である。

鬼の首を取ったように、「相手が悪い!」と叫べば、効率(コスパ)よく自分の状況を改善できるのだろう。

でも、僕は同時にこう思うのである。

それで何かを得たとして、勝ち取ったとして、その人の不幸が改善されているだろうか、と。

その人は依然として不幸なままに見える。

というか、また別のターゲットを見つけて、不幸自慢を続けていく。

周囲は「面倒な人」という扱いをするようになる。

でも、本人は無自覚なまま変わることはない。

真面目に向き合うだけ無駄

僕はこの種の人に出会う度、「気持ちは理解できる。置かれた状況に共感もする。でも、それでは何も変わらない。これからどうするのか?」ということを問うようにしている。

その試みが成功したことはない。

何を言っても、「あれが悪い。これが悪い」しか言わないからである(もしくは泣くだけ)。

多くの人達はたぶんその話を受けて、真剣にその悪いと言われた状況を改善しようとしてしまうのだろう。

それはやめた方がいい。

付け上がらせるだけである。

本当に困っている人とは明らかに違う

もちろん見極めは重要である。

本当に困っている部下がいて、その状況を改善しなければならない、ということは実際にある。

でも、「被害者意識高い系」の人達は、そのような本当に困っている部下とは根本的に異なるのである。

僕も過去それで手痛い失敗をしてきた。

そこから僕は対応を変えることにした。

話は聞くけれど、何らかの対応を取ることはない、と。

自衛の力を

世の中には差別がある。

いじめもある。

それが望ましいことだとは決して思っていない。

でも、それが現実なのである。

リアルな世界で生きていくには、差別主義者とできるだけ関わらないようにすべきであるし、出会ってしまった時には身を守る術(逃げる術)を身に付けておく必要がある。

他者は変えられないから。

差別主義者が差別をやめることはない。

いじめをする人がいじめをやめることはない。

もちろんやめて欲しいとは思う。

でも、それは叶わない願いなのである。

完全な被害者など存在し得ない

世の中にはたくさんの変な人がいる。

それに対して被害者意識を覚えることは僕だってある。

でも、それだけでは何も変わらないのだ。

僕にできるのは、自分ができることをやることだけである。

そしてそこには必ず血が流れる。

返り血も浴びることになる。

それがこの社会で生きるということなのだ。

完全な被害者など存在し得ない。

僕だって、あなただって、その一翼を担っている。

悲しいけれど。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

この種の議論をすると、「あなたは『そちら側』の人間だからわからないのだ」という人が必ず現れます。

此岸と彼岸。

そうやって世界を切り分ければ、自分は永遠に被害者でいられるのかもしれません。

でも、僕にはそのような人達が幸福そうには見えないのです。

被害者意識は、自分がどれだけ不幸か、どれだけ虐げられているか、を探し続けることで、そのカタルシスを得ようとします。

自分がどれだけ惨めであるかを常に主張し続ける人は幸福ではない。

そんな当たり前のことに気づけたら、血を流しながらでも、前に進むことができます。

その時にまたお会いましょう。