心理的安全性とかグダグダ言ってねえで、長尺で話せばいいんじゃねえの?

UnsplashAma Journeyが撮影した写真

「ガワ」と「中身」

今日の話は(やや乱暴な言い方ではあるが)タイトルの通りである。

何かに名前をつけると、その「ガワ」を必要以上にありがたがる人達がいる、と僕は思っている。

でも、大事なのは(当たり前であるが)「中身」である。

今回の話で言えば、心理的安全性という言葉が世間に広まるにつれ、何かにつけて「心理的安全性」「心理的安全性」と言うようにはなったけれど、実際のところは何も変わっていない、という苛立ちが僕にはある。

そして、それを偉そうに使っている人達が、実際には全くそのチームなり組織の心理的安全性に寄与していない(ように見える)ということも、その怒りに拍車をかける。

頭の良い人達はいつもそうだ。

僕はそのような印象を(とても大雑把ではあるが)持ってしまう。

だから、もちろん心理的安全性という概念を理解することは大事だけれど、実際問題として健全なチームを作りたいと思うなら、「それぞれの部下と長時間対話をするしかないんじゃないの?」というのが僕の結論である。

何だか言いたいことはすべて言ってしまったような気もするけれど、とりあえず始めていこう。

自己責任と自分勝手

会社から心理的安全性が失われて久しい。

ここにはノスタルジー的な要素もあるとは思う。

ただ、実感として、以前に比べると会社内がギスギスしたものであるように感じられる人が増えてきているのだろう。

もちろん、僕自身もその例外ではない。

ビジネスライクと言えば聞こえはいいけれど、ただの無関心というか、自己保身というか、そのような無責任感が蔓延している、僕にはそのように感じられる。

そして、ここにコロナウイルスが直撃する。

以前までギリギリ保っていたチーム内の関係性にとどめを刺し、「自己責任」の名のもとに、皆が自己利益を増大させることに邁進する、そしてそれは決して悪いことではない、というような状態がある種当然のものとなった。

その中で出てきた言葉が「心理的安全性」である。

組織の中で異なる意見を表明する? 冗談だろう?

これは「組織の中で自分の考えや気持ちを誰に対しても安心して発信できる状態」「上司や同僚に異なる意見を言ったとしても、人間関係が破綻したり、相手から拒絶されたりしないと感じる状態」のことを指す。

さて。

逆説的にはなるけれど、組織において、このような状態が実現されていないことが図らずも証明されてしまった、というのが僕の印象である。

思い返してみればそうだろう。

同調圧力。

付和雷同。

それが日本の組織だ。

そんな中で、自分の考えや気持ちを安心して発信することなんてできるはずがない。

ましてやそれが上司や同僚と異なる意見であるとするなら、そんなものは出した瞬間に糾弾されて終わるだけである。

少なくとも僕はそのようなイメージを持っている。

グーグルの言うことはぜったい!

そんな中で、頭の良い人たちは、「我が社には心理的安全性が大事です」というようなお題目をただ唱えている。

グーグルの言うことなら何でもありがたがるような風潮。

でも、その人たちが何もしていない現状。

反 吐 が 出 る ぜ。

一瞬だけ切り取って、わかったような顔をするなよ?

僕は現場のマネージャーとしてずっと働いている。

幸いなことに、僕のチームは雰囲気が良いと言われることが多い。

そしてその度に思うのは、僕は多くの時間を部下との対話に費やしているということである。

でも、それは外部の人にはわからない話でもある。

一瞬だけ切り取って、「雰囲気が良いですね」と彼(彼女)らは簡単に言う。

でも、その裏側には、何十時間(下手をしたら何百時間)という部下との対話がある。

それは彼(彼女)らには見えない。

ただ、それこそが大事なのではないか、と僕は思うのである。

Fuck off キレイゴト!

1on1、打ち合わせ、デスクでの雑談、飲み会、方法や場面は色々ある。

でも、多くの人はそれをサボっている(僕にはそう見える)。

単純に対話の累計時間(総対話時間)が多くの管理職には圧倒的に足りていないのだ。

それを抜かして、「いや、心理的安全性が大事なんですよ」と偉そうに言われても、「何を言ってやがるんだ?」と僕は思ってしまう。

実践が大事、そうだろう?

冒頭にも書いたけれど、大事なのは中身である。

僕は心理的安全性の概念や議論については、それなりにウォッチしているつもりである。

ただ、ずっとマネージャーという仕事をしてきて思うのは、そうは言っても実践が大事、という当たり前のことである。

そして、それが出来る人は全然いない、ということも。

以前であれば、飲み会がその有効なツールだったのだろう。

でも、様々な背景を持つ人が増え、必ずしも皆が皆飲み会に出られる訳ではないということがようやく認知された結果、彼(彼女)らは心理的安全性を担保できなくなった(というか、元から心理的安全性なんてなくて、ただ権力関係で従えていただけなのだ)。

それを個人の責任であるように押し付けているだけなのだ。

僕はそれは職務怠慢であるような気がする。

もう少し足掻こうぜ?

もちろん、社会的に、ギスギスした環境が所与のものであるような気は僕だってする。

それに抗うのは難しいなとは思う。

でもさ、もう少しできることはあるんじゃねえの?

僕はそう思うのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

難しいこと簡単なこと。

理論実践。

僕の中では、それがグルグルと回っています。

どちらも大事。

どちらも重要。

要は、バランスです。

シーソーの傾き。

片方に振れたら、もう片方へ。

重心の移動。

そういう意味では、心理的安全性については、もう少し実践の方向に体重を乗せた方がいいのではないかと僕は考えています。

対話を。

対話を。

引き続き読んで頂けたら幸いです。