頑張り方がわからない時代
なぜ人は働くのか?
仕事をする意味とは何か?
そんな中学生みたいなことを思う時がある。
なぜ人は働くのか?
その目的とは?
多くの人は飯のタネというか、明日も自分を(そして家族を)生かす為に働いている。
もちろん、それが大前提ではある。
でも、それだけなのだろうか?
心を殺しながら働いている人たちを見ると、「何でそこまで…」と思うことがある。
そして、僕はそこまでは頑張れないな、と思ってしまうのだ。
今日はそんな僕のような中二病に侵されたままの人に向けて書いていく。
参考になれば嬉しい。
マネジメントに対するモチベーションの低下
マネージャーを8年やって、大体のことはやり尽くしたと僕は思っている。
やってみたいことはやれたし、自分の限界もわかった。
それが現在地である。
正直言って、マネジメントをやることに対するモチベーションは以前に比べるとだいぶ薄れてしまっている。
惰性、とまでは言わないけれど、自動運転システムというか、特に脳を活用しなくても、それなりの仕事はできる状態になっている。
それはきっと望ましいことなのだ。
そして、求めていたことでもある。
でも、今、現在、何をどう頑張ったらいいのか、それがわからなくもなっているのだ。
マネージャー(僕)はいらない
マネージャー不要論。
僕はマネジメントのブログを書きながら、それをずっと主張し続けている。
マネージャーはいらない。
僕はいらない。
そのように考えると(ふと我に返ると)、オレは何をやっているのだろうか、と思ってしまうことになる。
他の人は何をモチベーションに仕事をしているのか?
日々は順調に過ぎていく。
それは素晴らしいことではある。
でも、そこに情熱はないのだ。
何か僕を熱くさせてくれるような、刺激はないのである。
ただ、同時にこうも思うのである。
それって僕だけなのだろうか?
それが冒頭の疑問に繋がってくる。
他の人は何をモチベーションに仕事をしているのだろうか、と。
順回転と停滞
僕には頑張り方がわからない。
もう少し若い時には、そして社会というものがあまり見えていない時には、それなりの上昇志向が僕を駆動させていた。
給料などの処遇が上がっていくことがゲームみたいで面白かったし、達成感もあった。
充実感とまでは言えないまでも、順回転しているような感覚があった。
それが今はない。
それは自分がマネージャーという仕事をしているからなのかもしれない。
でも、ちょっと前までは、そうではなかったのだ。
マネージャーという仕事に工夫の余地があったから。
そこに面白みも感じられていたから。
ただ、今はそうではないのだ。
大体のことはやった。
さて。
そこで我に返る。
「何のために働いているのだ?」と。
ムダな仕事であることを自覚しながらも、そんな自分を騙さなければならない苦悩
多くの仕事はブルシットだ。
その中には僕の仕事も含まれている。
僕の仕事はブルシットだ。
あってもなくてもおんなじ。
でも、さもそれが重要であるかのように振舞わなければならない仕事。
そしてそれが欺瞞であることに十分に僕自身が気づいている仕事。
そこに情熱を傾ければ傾けるほど、それが欺瞞であることの「濃度」が濃くなっていく。
その腐臭に僕はだんだんと耐えられなくなってきている。
何をどう頑張る(頑張らせる)?
「頑張ろう」と僕はメンバーに言う。
でも、そう言っている自分自身が、「何をどう頑張るのだ?」と思っている。
僕はどこに向かいたいのだ?
みんなはどこに向かいたいのだ?
壊れた羅針盤。
というか、元々行先不明なのかもしれない。
「いい仕事をする」という誤魔化し
仕事をやる意義。
それを見つけるのが難しい時代ではある。
「不要不急」という呪いの言葉が、100%当てはまる僕の仕事。
そこでスペシャルな成果を上げたとして、それが何になるというのか?
いやいや、それを「いい仕事をする」という目的を掲げることによって、何とか誤魔化してきたじゃないか。
それは確かにそうだ。
いい仕事をしたい。
でも、それはもしかしたら、マネージャーじゃなくてもいいのかもしれない。
僕は最近そう思っている。
ブルシット・ブルシット・ブルシット
やる気のないチームのメンバーたち。
そこにある背景については僕もよく理解できる。
ブルシットな時代の、ブルシットな会社における、ブルシットな仕事。
そこにやる気を求めるのは確かに酷だ。
現在も、そして未来だってたかが知れている。
それはそうなのだ。
でも、そういう人たちをモチベートすることに疲れてしまった。
僕自身がブルシットな環境に身悶えしながら、何とか抗おうとしているのに、そうじゃない人の面倒までなぜオレが見なければならないのか?
それってただの甘えなのでは?
そう思う頻度が高くなってきている。
無目的な人たちと仕事をするのに疲れてしまった
斜陽の国における斜陽の仕事。
くたびれて、つまらなそうにスマホを見ているスーツ姿の電車の乗客たち。
何が楽しいのだ?
そりゃ国力だって落ちるよな。
金でも名誉でも権力でも女でもなく、何を目的として僕らは働いていけばいいのか?
生活を守る、それは大前提だけれど、それだけでは人間は生きていけない。
無表情で無目的な、でも文句だけは立派な人たち。
そういう人たちと仕事をするのが嫌になってしまった。
彼(彼女)らの人生は彼(彼女)らのもの。
彼(彼女)らの責任も彼(彼女)らのもの。
そうだろう?
寄りかかってくるなよ。
甘えてくるなよ。
自立を。
自彊を。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
なぜ仕事を頑張るのか?
僕にはよくわかりません。
ブログの中でいつも「いい仕事をしましょう」と嘯いている僕でさえ、ふと我に返ると「So what?」と思ってしまう状況の中で、多くの人が前向きに仕事に励むという事態が起こる確率は低そうです。
外的動機と内的動機で言うなら、仕事自体に面白みを感じるという内的動機が優勢になることが望ましいのでしょうが、それをブルシットだと俯瞰している自分がそこにいて、その度に憂鬱な気分になっています。
働く意味とは?
いや、そもそも意味なんているのか?
僕にはわからないままです。
そしてそれすらも考えていないように見える人にもウンザリしています。
何とか発狂しないように頑張っていくつもりです。
応援頂けたら幸いです。