いじわるな職場

UnsplashNikが撮影した写真

閉じた社会における内輪揉め

人はなぜこうも意地悪になるのか?

職場で働いていると、そう思う時がある。

元々の性格の悪さ、余裕のなさ、単純な憂さ晴らし、嫉妬、まあ色々な要因があるだろう。

その中でも僕が「きついな…」と思うのが、「未来への展望のなさ」である。

これはたぶん僕が勤務している会社だけでなく、日本社会全体に蔓延しているものであるような気がしている。

拡大していかない経済。

隘路に入り込んだ政治。

そのような「閉じた」社会における、内輪揉め。

そこに意地悪の原因があるような気がしている。

今日はそんな話である。

外向き・内向き

外を見るか、内を見るか。

人の意識を判断するときに、僕はこの尺度で見る時がある。

この人は外向き、この人は内向き、そんな感じで判断をすることがある。

そういう観点から考えた時に、内向きの人が増えているように僕は思うのだ。

微細な差異に囚われ、非寛容になる

では、なぜ内向きの人が増えているのか?

それは外に拡大していかないからである。

経済は停滞したままだし、政治もパッとしないし、口を開けば「ダメな日本」みたいなことしか言わない人ばかりだし。

すると、内部でのちょっとした差に目が行きがちになる。

やれアイツはどうだ、あれはおかしいんじゃないか、ズルい、みたいな、しょうもない議論が中心になる。

それでも気が済まなければ、更に微細な違いに焦点が当たるようになる。

僕たちは他者を尺度として自分の立ち位置を見極めようとする傾向が強いから。

結果、僕たちはどんどん他者に対して非寛容になっていく。

そうして生まれたのが「いじわるな社会」であり、「いじわるな職場」である。

そして、そこに無自覚な人が増えている。

それが今回の議論に繋がっていく。

無自覚な悪意

僕が会社で長く働いていて、最近感じる意地悪さは、昔の意地悪さとはちょっと違うように思っている。

何というか、昔は「悪意への自覚」があったように思うのだ。

誰か悪意をぶつける対象がいて、その人に悪意をぶつける、そして本人も自分が悪意をぶつけているという自覚がある、というある種当たり前の状況(わかりやすさ)が昔はあったように思うのである。

でも、現在は違う。

無自覚な悪意。

当の本人もそれが悪意であると気づいていないような悪意。

そこに僕は恐怖を覚えるのだ。

悪意の連鎖

精神疾患的な歪み。

そう言ったら大袈裟だろうか。

病を患っている人は、自分が病を患っていることに気が付かないもの。

そう思う時がある。

そしてそれは個人だけに責任があるものではない、そんな気がするのだ。

瘴気、というとオカルトっぽく聞こえるかもしれないけれど、悪い空気が社会全体に蔓延していて、それは希望のなさから生じていてそれを吸うと、僕たちは不機嫌になり意地悪になる(無自覚なまま)、そんな風に感じるのだ。

道端ですれ違う人、電車に乗り合わせる人、職場で共に働く人、みんな不機嫌そうに見える。

そうやって、僕たちは悪意を連鎖させていく。

それも、捻れ、歪み、みたいな、ストレートじゃない意地悪さとでも言うような。

単純に性格が悪いなら、まだマシ。

そうじゃない気味の悪さ。

僕はそれを食らうたびに、気分が滅入ってしまうのだ。

ヘイル・メアリー・パス

そして、たぶんそう思っているのは僕だけじゃない。

だからこそ、カウンターの「お花畑的理想論」みたいなものが出てくる訳だ。

みんな気分が落ち込んでいて、今のような意地悪な人たちに囲まれている状況に嫌気がさしていて、だからこそユートピアを願う。

気持ちはわからないではない。

でも、たぶん、それも違うのだ。

僕たち日本人は一発逆転みたいなものをすぐに求めがちだ。

それで何度痛い目を見たことか。

それを忘れて、「ヘイル・メアリー・パス(神頼み的なロングパス)」を求める。

でも、それは希望じゃない。

僕たちはもっと身近な希望を見つけるべきだ。

素朴で手触り感のある希望

未来を期待できるような何か。

上手く表現できないけれど、それは僕たち自身が気づいていないだけのような気がしている。

インバウンドの人たちが日本の良さに気づくみたいに、僕たちの中にはまだ使えるものがたくさん残っているはずだ。

過大な悲観論も、過剰な礼賛主義も、不要。

素朴で、でも、しっかりとした手触りの希望。

それが僕らには必要である気がしている。

希望を提示するのがマネジメントの仕事

意識を外に向けられるような、僕たちがそこにやりがいを持てるようなもの。

内輪揉めしている場合じゃなく、でも排外主義的になるのでもなく、理想論に絡めとられる訳でもない、ささやかな希望。

そこに僕たちが意地悪な社会(職場)から抜け出せる可能性があるように感じている。

そしてそれを提示するのはマネジメントを仕事にしている人たちだ。

機嫌良く働く為に

シュリンクしていく経済。

どうにもならない政治。

その中でブルシットな仕事をする無力感。

それはよくわかる。

でも、僕たちマネージャーの仕事は、そのような状況からでも小さな希望を提示することなのだ、きっと。

機嫌の悪い人たちから逃れ、機嫌良く働く為の、小さな方法論。

それを見つけるために、これからも僕はこんなヘンテコなブログを書いていくつもりだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

なぜそんなにも不機嫌なのか?

何か嫌なことでもありましたか?

そう思うことが多々あります。

職場でも、電車でも、スーパーでも、コンビニでも、多くの人たちの眉間にしわが寄っていて、「一億総不機嫌国家」みたいなことを思ってしまいます。

その発露としての意地悪の連鎖。

気持ちはよくわかります。

でも、それってやっぱり良くないよな、とも思うのです。

かといって、煌びやかな理想論にも嫌悪感を覚えてしまいます。

ささやかな希望。

それが何なのか、具体的なものが見つかっている訳ではありません。

でも、それを何とか見つけたい。

それが僕がこのブログを書いている意味です(というか、その行為自体に自浄作用があるのかもしれません)。

共に生き延びましょう。