効果検証をきちんと行う

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効果検証を繰り返すことで戦略が研ぎ澄まされていく

マネジメントにおいて戦略立案は非常に大事な項目だ。

これを如何に効果的にやるかによって、その後の展開の難易は変わってくる。

仮に上手くいかなかったとしても、効果検証をきちんと行い、それを活かして次の戦略を立案していくことで、どんどんと戦略が研ぎ澄まされていく。

そのような切れ味のある戦略で戦うことで、勝率が上がっていく。

と、僕は考えている。

が、世間的にはどうやらこの効果検証が蔑ろにされているようだ。

熱しやすく冷めやすい人たち

竜頭蛇尾という言葉の通り、プロジェクトの開始前には多くの人が様々な風呂敷を広げて話しているけれど、「それがどのような経路を辿って、どこに着地したのか」「それはなぜなのか」ということはあまり問われないように感じている。

当初盛り上がっていた熱量は、事業が進んでいくにつれてどんどんと尻すぼみとなっていく。

成功であれ、失敗であれ、仮説に基づいた結果というのは貴重なデータ源であると僕は考えているのであるが、どうもこのように考える人間は少数派のようだ。

これが不思議でならない。

気付けばみんな「次の話」をしていて、過去のことについてはそれがあったことすら忘れ去られている。

「腰が軽い」といえば聞こえはいいのかもしれないけれど、僕からすれば、毎回同じ地点からやり直しているように感じる。

上昇のないループ。

螺旋状にならない平地での運動会。

もちろん参加者は全員真面目に全力に取り組んでいる。

でもその努力はどこか的外れだ。

労力はかかるけれど…

確かに効果検証には体力がかかる。

それに「楽しさ」のようなものもない。

どちらかというと、地味で苦しい「作業感」が伴うものだ。

だからさっさとそんなものは忘れて、次のお祭りに参加したくなる気持ちもわからないではない。

そっちの方が賑やかだし、勝ち馬にも乗れそうだからだ。

でも人々が去った後の花火会場でぼんやりと物思いにふけることがなければ、次の展開も同じようになってしまう。

でもそこに残っているのは僕一人のようだ。

この感じがいつも伝わらない。

仮説と実行と検証

トライ&エラーを繰り返していくことで、データを拾い集めていくことで、マネジメントの精度は上げることができると僕は考えている。

仮説と実行と検証というのはワンセットであり、そのサイクルを回していくことで、どんどんと打率を上げることができるのだ。

これはPDCAという概念とはちょっと違うものとして僕は捉えている。

上手く表現できないのだけれど、PDCAは静的なイメージで、仮説と実行と検証はもう少し動的なものだ。

「計画」と「仮説」は、「評価」と「検証」は、前者が固く(固定的)、後者が柔らかい(流動的)イメージだ。

PDCAは会議でやっているような感じで、仮説と実行と検証は実験室でやっているような感じだ(と言っても、たぶん伝わらないだろう)。

予想外の道のりを振り返る

僕はこの反復にマネジメントの面白さを感じている。

僕たちマネージャーが相手にしているのは工業製品ではなくて人間だ。

その人達は瞬間瞬間でどんどんと変容していく。

そういう人達を上手く同じ方向に向かせながら、マネージャーはプロジェクトを前に進めていく。

そしてそれを効果的に行うためにはどのようにしたらいいのか、というのを動的に考えていく。

たぶんこんな風な展開になって、このような結果になるだろうと考えていく。

これが仮説だ。

しかしながら、実際にプロジェクトを始めてみると、予想外のことが次々と起こっていく。

彼らは様々な感情を持ち、その感情はどんどんと変わっていくからだ。

そして当初想定していたゴールとは全然違う場所に僕たちは到達する。

その辿ってきた道を振り返ってみる。

これが検証だ。

天候や道中の状況を参照しながら、そこに現れたエッセンスを抽出する

それを次回に活かしていく。

これが大事だ。

具体的な事象を抽象化する

でも大半の人は小学生の絵日記のように「楽しかった」「大変だった」のような感想しか持つことができない。

「それがなぜ楽しかったのか」「それがなぜ大変だったのか」を詳細な文章に纏めることはできない。

そして次の遠足に出発していく。

もちろんビジネス環境というのは日々刻刻と変わっていくし、それを次のプロジェクトにそのまま活用できる訳ではない。

でも、もしその構成員が同じであるのであれば、その人間達を効果的に動かしていく方法はあるはずだ。

「次だ、次」という態度は潔いものであるように見えるが、僕には少し感情的過ぎるように思える。

精神論的な臭いをそこに感じ取ってしまう。

科学的に、統計的に、数理的にというのは人間を測る尺度としてはドライすぎるのかもしれないけれど、こういう冷徹な視点、冷静な観点がなければ、それらは結局は「運」に還元されてしまう。

「空気」に支配されてしまう。

「勢い」に流されてしまう。

運でも空気でも勢いでもないマネジメント

僕は「運」でも「空気」でも「勢い」でもない、マネジメントの攻略法をいつも探している。

汎用性のあるエッセンスを抽出しようとしている。

その為には効果検証が必要不可欠だ。

その場に佇む、沈思黙考する行為は確かに「空気を乱す」ものなのかもしれない。

切り替えられない不器用な人間という烙印を押されるだけなのかもしれない。

それでも、と僕は思うのだ。

「思考停止」だけはまっぴらごめんだと。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

科学というのは抽象化の産物で、抽象化には恣意性が伴います。

そしてそれらは限られた環境の中でのみ作用するものです。

だからといって、これらが全て無為なわけではありません。

反対者たちは具体的な細々とした事例を1つ1つ並べることで普遍性のなさを主張しようとしますが、それをしたところで僕らは次に進める訳ではありません。

エッセンスを抽出することは、何かを捨てることでもありますし、全てを網羅できる訳ではありません

でもそこにこそ人間の英知があると僕は思っています。

法則性というのは、仮説に基づくある種の幻想に近いものです。

互いに関係のなさそうな物事を結びつけながら、僕たち人類は言語や国家のような抽象物を作ってきたわけです。

そのような抽象物を現実の具象物に置き換えていく。

その連関がマネジメントにも必要です。

ホワイトボックステストの網羅性を競っているのを横目に、僕は理論と実践を繰り返して、体感的なデータを蓄積していきたいと思います。

僕らに大切なのは、それらを踏まえた「次」です。

それに活かせるようにしっかりと検証を行っていきましょう。