休みがちな者をどうマネジメントするか?

昭和的マネジメントで傷つけられた人達へ

多様性が求められる時代においては、勤務形態も様々になる。

フレックスや時短、隔日勤務やリモートワーク、それぞれの働き方に合わせてマネジメントスタイルも変わる。

というか、変わらざるを得ない。

そういう意味において、フルタイム社員のみで構成されるチームのマネジメントは比較的簡単だ。

指示出しは1度で良いし、どの社員に対しても同じような指導方法で構わない。

そこで付いて来られないものは切り捨てていけばいい

代わりはいくらでもいるのだから。

今日はそういうマネージャーによって傷つけられた人に対するマネジメントの仕方について話してみる。

24時間戦えますか?

僕が多くの年上のマネージャーを見ていて思うのは、自分の成功体験を部下にも当てはめようとする、それが王道だと思っている、ということだ。

モーレツ社員とまで言えなくとも、会社に忠誠を尽くすのが「当たり前」で、残業も休日出勤も厭わず、それこそ企業戦士のように働いていくこと、それが善である、という考え方を部下にも当てはめること=マネジメント、としているように見える。

僕はそれで長期的に成果が出ていくのであれば、それはそれで1つのマネジメント手法ではあると思っている。

でも現実的にはそれは「長期的に」成果を出すことはできない。

なぜなら部下が壊れるからだ。

そしてその時にはそのマネージャーはいないからだ。

その種のマネージャーは壊れる部下は部下の方に問題があると考えていて、それを踏み台に昇進の階段を駆け上がっていく。

素晴らしき企業社会。

メンバーの(どうしようもない)力を組み合わせていく

個人的にはそういうやり方には賛同しかねる。

僕はそうじゃないやり方で長期的に成果を上げたいと思って、自分なりにたくさんの試行錯誤をして、たくさんの失敗を積み重ねて、何とか成果を出し続けられている。

そして脱落者は皆無だ。

それはなぜなのか?

それは僕が「総力戦」のようなイメージを持っているからだと思う。

基準から逆算してメンバーを計測するのではなく、メンバーの実力からできる水準を出していく

トップダウンではなく、ボトムアップで考える。

どんなに小さくても1人1人の力を取り敢えず繋ぎ合わせていく。

それが僕のマネジメントに対する考え方だ。

様々な背景がある社員たち

僕はどんなに実力やスキルがなくても0以上のプラス値となるので、それを上手く使っていけばいい、と考えている。

もちろん理想を言えば、少数精鋭で選ばれた者達だけでマネジメントをやってみたい、その方が自分のやりたいことができるし、もっと高い成果を出せるだろう、とは思っている。

でも、現実はそうではない。

色々な背景の社員がいて、その中には会社に今一つ馴染めていない者もいる。

そういう社員の中には、前任のマネージャーに疎んじられて、メンタル的に会社に継続的に来ることができなくなっている者もいる。

恐怖で駆動されるものなんてたかが知れている

僕はこういう状況からチーム作りを任されることが多い。

僕はよく上司連中から「甘い」と言われることが多いのだけれど、これが不思議でならない。

確かに僕は職場内で怒鳴ったり、叱責したり、青筋を立てたりすることは皆無だ。

それは単純に効果的ではないと思っているからだ。

怒鳴って部下を追い詰めれば成果が上がるのであれば、僕はいくらでもやるだろう。

僕自身は冷たい人間で、合理主義者でもあるからだ。

でも、人間は機械ではなくて、個人の能力は脅しによって開眼されるわけでもなくて、単純に内的動機をうまく引き出した方が成果が上がるので、そのように運営しているに過ぎない。

だから、そのように「疎外された」人達と話をして、彼らのモチベーションの源泉がどこにあるのかを探って、それに当てはまるような仕事を任せている。

居場所感を与える

当たり前の話だけれど、内的動機に当てはまる仕事を任せられれば、人間は努力する。

成果も上がる。

すると、少しずつではあるけれど、自信が出てくる

チーム内にいてもいいのだ、という「居場所感」が生まれてくる。

僕はこういう本当に小さなことが大事だと考えている。

人間は善であるとか、努力すれば報われるとか、そういう綺麗事を言うつもりは毛頭ない。

ただ単純にその方がチーム運営は楽になるし、数字が上がる、それだけのことだ。

休みがちなものも、メンバーにはすぐに馴染めないかもしれないけれど、僕とは話すようになるし、僕には冗談を言えるようになる。

僕とそのメンバーが下らないことを言っていると、徐々にその輪に他のメンバーも入ってくるようになる。

こうなれば、その休みがち「だった」メンバーももう大丈夫だ。

アノミー的な社会の中で

恫喝も神妙な顔もマネジメントには不要だ。

楽しそうに働いていたって、成果を上げることはできる。

もう少し真面目な話をすると、これだけ社会がアノミー的になっている時代においては、職場が一つの疑似的な共同体であることも必要だと僕は考えている。

昭和的な連帯感は不要だけれど、自分の能力を発揮できて、それを認められる場がある、というのはとても大事なことだ。

そして「疎外された」経験のあるものは、時に自分の能力以上のものをチームに還元することがある。

僕はそんな風にマネジメントを行っている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

僕自身が万人受けするタイプではなく、たくさんの上司達に疎んじられてきたこともあるので、何となく「疎外された」人達に共感を覚えます。

「主流」ではなく「傍流」である人が僕はとても好きです。

「奇妙な人たち」を僕は面白いと思います。

統一されたものが苦手で、「みんな一緒に頑張ろう!」みたいなものが大嫌いであるので、僕はチームメンバーにも好き勝手させています。

それだって成果を上げることはできる。

日本社会は「躓いた人」にとても厳しいところですが、僕は「躓いたことがない人」はむしろ厚みがなくてつまらないと思っています。

「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」(by山王工業高校)

そういう人達と僕はこれからも高い成果を出していこうと思っています。