複雑なものは複雑なままにしておく
複雑なものを単純化することは知的と言えるのか?
複雑なものを単純化することを知性だと考えている人が多いような気がしている。
難しいことを簡単に。
確かに頭良さそうに見える。
でも、複雑なものは複雑なまま受け入れる姿勢こそが知性なのではないか?
そんなことを最近は考えている。
ご存知の通り、マネジメントというのは複雑系に属するものである。
様々な物事や人間、環境が絡み合って、「そのような」状態となる。
それらを単純化し過ぎない方がいい。
そうすることによって、見落とすことが少なくなる。
今日はそんなことを書いていこうと思う。
コスパ・タイパ・切り取りetc.
何事もわかり易く。
それが現代の流れである。
それは何もSNSやYouTubeを開かなくてもわかる。
「複雑なものを単純化して理解しやすい形にすること」に対する需要は大きい。
できるだけ時短で。
できるだけ効率よく。
複雑なものに直面することを恐れない
確かに、広い意味で言えば、僕が書いているこのブログだってその種のものに含まれるのかもしれない。
でも、普段から読んでくださっている方ならわかると思うけれど、これだけ言葉を尽くしてもマネジメントというのはよくわからないままだし、単純化し過ぎると零れ落ちるものがある、そう思っているからこうやってグダグダと書いているのである。
なるべくそのままの形で切り取ること。
複雑なものに直面することを恐れないこと。
それがマネジメントを志す人間には必要な態度である。
外科手術的なイメージ
職場では色々なことが起きる。
知的探求心がある方なら、その根源となるものを探りたくなるだろう。
例えばそれが問題だとするなら、摘出すれば事態はよくなる、というようなイメージ。
気持ちはわかる。
でも、そんなものはないのだ。
悪の帝王はいない
これは世界に対する態度にも似ている。
「悪の帝王(もしくはその一派)」みたいなものが世界を牛耳っているというのは、陰謀論ではよくある思考形態である。
そいつを打倒すれば、世界は良くなるはずだ。
だから悪い奴らは排除すべきである。
気持ちはわかる。
でも、「そんなものはいない」のだ。
というか、いたとしても排除なんてできないし、仮にできたとしても、また別の悪の帝王がその隙間を埋める。
世界は1つの事象だけで全てを説明できる程単純ではない。
それはRPGの中だけの出来事である。
良く切れる刀と鈍い刀
マネジメントをやっていると、「良く切れる刀」が欲しくなる。
何事に対しても快刀乱麻、ばさっばさっと切って、物事をスッキリとさせていきたい。
そう思うことがある。
でも、気をつけた方がいい。
良く切れた後の傷口からはたくさんの出血がある。
もしかしたら化膿するし、壊死するかもしれない。
それなら「鈍い刀」で十分である。
大きく動かせば、反動も大きくなる
確かにバランスを取ったり、ゆっくりと動いたりすることはまどろっこしく思える。
それよりも「改革」や「革新」みたいなことをやりたくなってしまうものだ。
現在は良くない。だから改革が必要だ。
よくある文型である。
でも、よく考えた方がいい。
シーソーと同じように、何かを大きく動かすと、それと同じくらいの反動がある。
それが許容できるなら、改革も革新もやればいい。
でも、そのリスクが負えないなら、再考することが必要だ。
わかり易さと早さへの懐疑
現代においては、「わかり易さ」や「スピード」が上位概念に置かれている。
できるだけわかり易く、できるだけ早くが、できるビジネスマンの定義でもある。
「でも、本当にそうか?」というのが今日の話である。
それってもしかしたら詐欺なのでは?
留保から逃げない
最近僕が考えているのは、「留保することから逃げない」というものである。
これは以前書いた「球を持たない」という記事への補足でもあるのだけれど、捌けるものはすぐに捌くべきであるが、そうでないものは留保することも重要であり、留保することへのイライラ・ジレンマみたいなものに耐えることも時に必要である、僕はそう考えている。
何というか、判断を先延ばしすることは「どんな事情があろうと悪いこと」みたいに捉えられているような気がするけれど、マネジメントにおいては必ずしもそうではない。
「漸進的」というのは褒め言葉ですらあるのだ。
一足飛びに「理想の状態」にジャンプする、というのは現実では起こりえない。
それは空想の中だけで起きる現象だ。
複雑さに立ち向かうことでしか得られないものがある
僕たちができることは、手元にある資源を使って、日々の仕事を回しながら、ちょっとずつ良い方向に向かっていくこと、それだけである。
今日の仕事を放っておいて、理想に向けた改革だけをやることはできない。
でも、この意味をきちんと解っている人は少ない。
「切り取り」というのが当世流で、世界を単純化するには手っ取り早い方法なのだろう。
でも、その複雑さ・圧倒的面倒くささに立ち向かうことでしか、得られないものがある。
複雑さに呆然とする経験を
上手く言えないけれど、簡単にわかった気になるのではなく、圧倒的複雑さを目の前にして呆然とする、それによって自分の卑小さを実感する、そういう経験が大事なのではないか、と僕は考えている。
生物は多様であり、何かがなくなれば、何かがそれを埋める。
今日ダメだった生き物が、明日からいきなり進化することはない。
そんな生物学的なイメージを忘れずに、これからもマネジメントを続けていこうと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
マネジメントをやる上で大事な概念に、人間は生物である、というものがあります。
何をそんな当たり前のことを、と仰る方もいるかもしれませんが、これが結構忘れがちだと僕は思っています。
科学的・数理的・統計的に疎明できること、ある種の「わかり易さ」と「説明可能性」。
そういうものと格闘し過ぎると、人間が生物であることを忘れてしまいそうになります。
国語のテストのように、「この時の主人公の気持ちを30字以内で記述」できる程、人間は単純ではありません。
揺蕩っていきましょう。