反射的コミュニケーションへのアンチテーゼ
キャラ設定に基づいた会話の連続
コミュニケーションとは、応答することによって、そこにいる相手の存在を認め、ある種の祝福(そこにあなたがいて嬉しい)を与えることである、僕はそんな風に考えている(これはヴォネガットの受け売りでもある)。
そういう意味では、若い世代を中心に行われている「反射的コミュニケーション」というのは、コミュニケーションの神髄とも言えるのかもしれない。
コミュニケーションというものを濃縮し、突き詰めていくと反射的コミュニケーションとなる。
それはあながち間違いとは言えないのだろう。
ただ、それでいいのだろうか、というのが今日の話である。
ある種のキャラ設定に基づいた会話、そのキャラに適した言葉遣いの固定化、それはその人の成熟を阻害するのではないか?
今日はそんなことを書いていこうと思う。
営業とは言葉を使う仕事だ
営業という仕事は、言葉を使う仕事である。
僕はその営業という仕事のマネージャーをやっている。
当然ながら、「若手の育成」というのもその仕事の範囲には含まれる。
そして若手の指導をしていると、今日のテーマみたいなことを思うのだ。
場の空気は壊していない、で?
彼(彼女)らは、場の空気を壊さないということにかけては天下一品である。
ただ、そこには何も生まれていない。
そして何も生まれなければ、営業という仕事ではあまり役に立たない。
そんなことを思うのだ。
ブロックの外側でパスを回すだけではゴールを破れない
これは見方によっては「円滑なコミュニケーション」と言えるものなのかもしれない。
場に淀みを作ることなく、滑らかなパスを送り続ける行為。
それ自体は、文字通り、決して悪いものではない。
ただ、である。
そこから「くさびのパス」を打たなければ、コミュニケーションは進んでいかないのではないか?
ある種の淀みや、予定調和の破壊がなければ、アタッキング・サードに侵入し、ゴールを破ることはできないのではないか?
それが僕の最近の問題意識である。
会話bot
レスポンスの速さというのは、一見頭の回転の速さを表しているように見える。
彼(彼女)らの世代同士の会話は、まさにそのようなスピード感・テンポ感で行われる。
でも、僕からすれば、そこに含まれている言葉は「テンプレ」ばかりである。
ある種のキャラ設定に基づいて選ばれ固定された言葉たち。
それをプログラムに基づいて、botのように答えること。
辛辣な言い方にはなるけれど、そんなことを感じるのだ。
同じやり取りの連続はディストピアだ
キャラ設定から外れた言葉というのは、場に緊張感をもたらす。
いつもと違う、ということは、僕には面白いことであるのだけれど、きっと彼(彼女)らにとっては脅威に感じるのだろう。
同じやり取りを毎日繰り返すこと。
毛繕いの連続。
それは僕にとってはディストピアでしかないのだけれど、彼(彼女)らはそんなことは思わないようである。
営業力(それも架橋する力)が落ちている
若手社員の「営業力」みたいなものが測定できるとして、その力、特に違う世代とやり取りをする力、が衰えているように僕は感じている。
そしてその違和感を、若手社員は思ったほど感じていないように見える。
彼(彼女)らから、「数字が上がらない」と相談される度に、その部分が問題である、と僕は思うし、実際にそう伝えるのだけれど、イマイチぴんと来ないようである。
予定調和内の祝福
コミュニケーションとは応答の中で祝福を与えることである、と冒頭に書いた。
それを敷衍するなら、彼(彼女)らは応答はしているのだけれど、祝福は与えていない、そんな感じがするのである。
相手が応答してくれるということは、それも予想外の角度からの返答があるということは、自分が変化するその媒介となる喜ばしい事態であるというのが僕の認識なのだけれど、彼(彼女)らにすれば、それが予定調和的に行われるのであれば祝福しますよ、という留保条件が付いている感じがするのだ。
それを壊す者には祝福を与えない、というか。
複線化する自分、不安定な自分を受け止めること
人間の成熟とは、得体の知れないものに触れ、自分の軸みたいなものが揺さぶられること、そして自分というものが複線化していくことを受け止めることにある、と僕は考えている。
そしてそれを割り切るのではなく、そのままの状態、不安定・未決定の状態を受け入れる姿勢にこそ、成熟があるのである。
単純なものは成熟しているとは言えない。
でも、単純化することが知的証明みたいになっているような気がする。
不純物の中に価値がある
テンプレ的なやり取り、ストックフレーズの応酬、脊髄反射的な応答。
そこにあるのは「空」だ。
場に質量がなければ、不純物がなければ、速さが生じる。
そして速さというのは、尊ばれるものでもある。
でもあまりにもツルツルとしていて、引っかかりがないのも問題なのだ。
言い淀むこと、言葉を探すこと、沈黙、そのような類のものは、できるだけ取り除いた方がいい、その方が営業として優れている、そんなことがある種の常識として通っていて、本社もそれを励行しているように見える。
そうやって金太郎飴的な営業マンが増えていく。
成熟のない営業に大きな成果はない。
目の前の砂金を拾って何になるというのだ?
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
立て板に水。横板に雨垂れ。
どう考えても前者にポジティブな響きがあるような感じがします。
でも、僕が考える「できる営業マン」は前者ではなく、後者のような人(「淀み」がある人)です。
期待通りの反応があるなら会話などいらない。
というのは暴論のきらいはありますが、そのような意識を持ちながらbotのような返答をするのと、意識すら持っていないのではその後の仕事の成果が大きく変わってきます。
キャラから脱して、空気を乱していきましょう。