日本社会の低生産性の原因とは?

労働密度が低いのは成果によって評価される訳ではないから

日本社会の低生産性の原因については様々な議論があるが、今回は組織論的な立場からこの話をしてみようと思う。

よく言われるのが「労働時間が長い」という言説で、これが「労働密度が低い」「つき合い残業が多い」という話に繋がっていく。

実際に働いている立場からすると、これは的を射ていると思う。

ではなぜ労働密度が低いのか?

僕の答えはこうだ。

答え:必ずしも成果によって評価される訳ではないから

成果主義は企業側からのコスト削減要素が強い

「いやいや、ウチは成果主義が導入されているけど、労働密度は低いですよ?」

もちろん企業ごとに成果主義の度合いや対象範囲は異なると思うので一概には言いづらいのであるが、大抵の企業は「そうは言っても、プロセスも評価に含まれている」のだと思う。

「じゃあ、成果主義を突き詰めていけば(プロセスをある種無視すれば)、生産性は上がるのでしょうか?」

「成果主義を礼賛しているのですか?」

そうではない。

うまくニュアンスが伝わるかは不安であるが、「現在の成果主義は企業側からのコスト削減要素が強いので、それを賛美している訳ではない。しかしながら、現状の評価手法はコストパフォーマンス的な視点が弱いのも事実なので、客観的な成果が評価に占める度合いを強めた方が良いのではないか」ということだ。

いち労働者側からの視点で言うと、「生産性の向上による便益よりも残業代水増しによる便益の方が大きいので、ダラダラと仕事をした方が得だ」ということになる。

生み出す成果を一定と仮定すると、労働時間という分母が大きければ、当然ながら生産性指数は低くなる。

「じゃあ、成果を出した人にはものすごい給料を出して、そうでない人は給料を減らす。それって、成果主義と同義なのではないですか?」

これについては、まあYesだと思う。

しかしながら、現実的には「給料を下げる(もっと言えば、解雇する)」ことは難しく、企業側も人件費総額を削減しようとしているから、成果を出した人の給料は結果的に成果を出していない人に引っ張られて低くなる(そんなに上がらない)ことになる。

僕はここに現在の制度的な限界があると思う。

低パフォーマーがいるとチームは確実に停滞する

マネージャーをしていて実感することだけれど、働かない人は本当に働かない。

でも人事権や減給権・解雇権がないマネージャーは、「それでもその人を使わないといけない」という制約がある。

これはチームをマネジメントする上で大きな困難となる。

少し強い言葉で言うと、「やる気のない人がいるとチームが大きく停滞するので、その人を除外したい。1人少なくてもその方がパフォーマンスが上がるから」というのが本音だ。

チームがチームとしてパフォーマンスを発揮するには、爆発的に発揮するには、ある種の「のめり込み」「カルト」のような熱量が必要となる。

その時にこの種の冷めたやる気のない人というのは大きな障害になる。

もちろん、その人個人の心情や事情はとてもよくわかる。

「働いても働かなくても給料は一緒だし、どうせこれ以上昇進は無理だし、解雇されることはないし、そんな状態で頑張るなんておかしくないか? ボランティアで頑張れってことか?」

そのように本人が思うのも仕方がないと思う。

現状の給与制度がそうなっているし、本人にとってはそれが経済合理的な行動だからだ。

だから僕自身はこういう感情を前提とした上で(その人の低パフォーマンスを考慮した上で)チームを運営していく。

そこに対して文句を言っていても仕方がないからだ。

でもさ、と時々僕は思う。

これでは生産性は上がらないよな、と。

日本の組織は個人の善意に頼りすぎだ

労働、という言葉には色々な意味や文脈が付帯するので、こんな短い文章の中で「こうだ」みたいな歯切れの良い言葉を言うのは不可能だ。

でも、僕はなんというか、「努力している人が真っ当に評価される」ということをベースに制度設計し直した方がいいのではないか、と考えている。

もちろん現在評価されている人たちが「努力していない」と言っているわけではないし、「じゃあお前はどうなんだ?」と詰め寄られると、確かに自信を持って答えられないことも事実だ。

そして組織の中で働いている以上、制度的な限界があることも承知している。

でもさ、と再び僕は思う。

個人の努力に依存しすぎなんじゃないか? と。

「ジョブ型」という言葉がようやく日本でも言われるようになってきたけれど、日本では「間に落ちる仕事」というのは暗黙の内にその職務に含まれている(むしろそれが当然だ)というような考え方が根底にあると思う。

そしてそれができないのは「マネジメント力がないからだ」とか「仕事ができないからだ」という個人に帰着するような言説になることが多い。

その言説は全部は否定しないけれど、もう少し制度として改善できることはあるんじゃないか、と僕は考えている。

個人の善意に頼るのではなく。

「ジョブ型」と「年俸制」をベースとした働き方へ

「仕事は仕事」という割り切った働き方がだんだんと広がっている中で、「会社」という大きな物語の訴求力が格段に落ちている状況下で、生産性を上げるにはコスパという評価軸のウェイトを高めていく必要があるように感じている。

そのような概念の導入は世知辛い現在の状況をさらに悪化させる種類のものではあると思うけれど、マネージャーとしてはその方が働きやすくなるのかもしれない、とまだぼんやりではあるがそう考えている。

もちろん制度というのは極端に走りすぎてはいけないので、この辺の匙加減は難しいけれど、「働いている人にはそれなりの対価を払う」「その対価に見合わないのであれば、他で職を探す可能性を探る」「その為には中途採用労働市場の充実が必要」「中途採用が増えるのであれば、社歴で評価するような考え方を撤廃する」みたいなことに繋がっていくのだと思う。

あちらを立てればこちらが立たずみたいなものになることは承知の上で、「働かない人をできるだけ少なくする」「働く人をできるだけ評価する」仕組みを作れないか、そんなことを考えています。

纏まりのない議論になってしまって申し訳ない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

ぼんやりとではあるのですが、「ジョブ型」と「年俸制(チームベース)」というのが最近の僕のキーワードになっています。

個人の善意に頼ることのできた時代にはマネジメントはもう少しやり易かったのだろうな、ということを折に触れて思います。

会社というものが一つの物語(幻想)として機能していた日本型社会においては、年功序列や阿吽の呼吸(長期的に会社に奉仕していれば報いがある)が制度的にマッチしていたのだろうと思います。

しかしながら、現在はそんな長期的な見返りを与えられる程会社にも余裕がありません。

そして個人も盲目的にそれを信じられる程純粋ではなくなってしまった。

そんな中でどうやって生産性を上げるのか、仕事に充実感を感じられる為にはどうしたらいいのか、その為には給与制度の変革が必要だよな、そんなことを思います。

仕事の定義が曖昧なままでは仕事の領域を極小化していくことが、労働時間の制約がない状況下では延々と残業することが、個人にとって合理的な行動となります。

結果として、「誰の仕事も手伝わないし、生産性も低いけれど、残業代だけはちゃっかり貰う」というどうしようもない社員ばかりになってしまいました。

それを打開するためには、弊害も承知の上で「ジョブ型」と「年俸制(チームベース)」を導入するしかないのではないか、そんな風に考えています。

もう少し考えが固まったら、このことについて書いてみようと思います。