キレずに感情を出す

UnsplashTengyartが撮影した写真

無感情は良いこと?

「キレたら負け」

職場でよく言われることである。

でも、これを履行し過ぎていて、全く感情が表に出ない人が大勢いる、そのように感じることがある。

そして、そのような人たちはそれを良いことだと思っているように見える。

まあ確かに。

過剰な感情は職場には不要だ。

ただ、あまりにも無さ過ぎるのもどうなのかなと僕は思っている。

感情を出さないことがデフォルトとして罷り通った結果、他者への信頼度やリーダーへの信奉度が下がってしまったのではないか?

もちろん、キレるほど強い感情はNGではある。

では、「丁度良い」感情の出し方というのはどのようなものなのだろうか?

そして、それはどのように実現できるのか?

今日はそんなことを書いていこうと思う。

それでは始めていこう。

サイコパスな僕でさえ感じるこの違和感の正体とは?

僕はどちらかというと感情をあまり出さない人間だと自覚している。

それは他人にそこまで関心がなく、正確に描写するなら、出さないというよりは、そもそもあまり感情が動かない、そんな感じだからである。

でも、そんな僕であっても、流石に現在の職場は感情が無さ過ぎるのではないか、と思っている。

みな喜怒哀楽を出さず、淡々と仕事をしている。

そのような人たちが増えた結果、相対的に僕の方が感情を出しているという変な状況(逆転現象)が起きてしまっている、そんなことを感じるくらいだ。

デメリット多め

では、なぜ人は感情を出さないのか?

それは感情を出すことによるデメリットが大きいと判断している(ただし僕はこれを多めに見積もり過ぎているのではないかとも思っている)からである。

また、感情をコントロール可能範囲の中で出すということのメリットについてもあまり考慮されていないからである。

以下、詳しく書いていく。

デジタルな感情

感情はオンとオフではない。

0と1ではない。

その間にはグラデーションがある。

でも、僕から見える多くの人は、このようなデジタルな判断をしているように見える。

会社で感情を出すのはデメリットが多いので、感情をオフろう。

そんな感じ。

もちろん、長い間社会人として働いている僕には、その気持ちは痛いほどよくわかる。

そしてそこには自衛の意味も含まれている。

「感情を持って仕事をすると、色々な厄介毎に巻き込まれる可能性が高まるし、自分自身もその感情に振り回されて疲れてしまうので、できるだけそれを出さず、自らも感じないようにしよう」

それが(僕も含めた)多くの人の実感なのだろう。

ただ、そういう人が多くなると、それも大多数を占めるようになると、職場というのは無味乾燥なものになっていく。

確かに現代流ではある。

合理的に物事は進んでいく(ような気がする)。

軋轢も衝突もなく、スムーズにコトが流れていく(ような気がする)。

でも、そこには失われているものもある。

僕はそのように思うのである。

不気味の谷の先にある違和感を超える為に

AIの進化、AIとの協同化によって、「感情」というものの価値はこれから上がっていくのではないか、と僕は思っている。

いや、「感情」というよりも「情緒」という方が適切な表現かもしれない。

クライアントや同僚など、人間を相手にした仕事において求められるものが、少しだけ情緒面に傾いていくようなイメージ。

それは理解や共感といったものが、情緒を伴うものである方が、その理解度なり共感度が高まるからであると僕は思っている。

AIはこれからも進化を続け、早晩僕たちはそれがAIによるものなのか、そうでないものなのかという判別がつかなくなるだろう。

でも、何らかの違和感のようなものはきっと残るはずだ。

それは「不気味の谷」よりも先にある、本当に微細な違和感であるだろう。

そこで求められるのが(回帰してくるのが)、人間による「情緒(感情)」なのではないか?

僕はそんな風に考えている。

デジタルな「判断」は判断とは言えない(誰がやっても同じになるから)

職場を合理的にしようとする時には、多くのものをデジタル化すれば簡単である。

これはデジタル機器を導入するとかそういう次元ではなく、判断の基準を0と1にしてしまえばいい(アナログなものをなくしてしまえばいい)、ということである。

曖昧なものをなくし、判断軸を明確にすること(切断面を分かりやすくすること)。

それは確かに良い面もたくさんある。

でも、それが行き過ぎた結果、判断の質が落ちてしまっているようにも思う。

もっと言えば、非常に浅はかな判断が合理的であると捉えられているような気がしている。

結果として、他者への信頼やリーダーへの信奉度が落ちてしまっている。

なぜなら、そこでは判断を信頼するような基準が担保されていないから。

誰がやっても、似たような結論になってしまうから。

他者への信頼を回復する為には感情が必要だ

これを超克するのが「感情」であると僕は考えている。

それも、感情に振り回されるようなものではなく(激情ではなく)、コントロール可能な範囲での感情を上手に使うことで、他者への信頼を取り戻し、リーダーへの信奉度を回復させることができると思っている。

客観視しながら感情を出す

では、そのようなコントロール可能な感情はどのように出せばいいのか?

客観視しながら出せばいい、というのが僕の回答だ。

自分さえも客観視して、第三者視点で感情を出している自分を眺めればいい(この種のことは他のブログでたくさん書いているので、そちらをご参照頂きたい)。

そして、それができれば判断の質が上がり、職場に熱が生まれ、結果として成果の向上に繋がるはずである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

冷静と情熱のあいだ。

冷静過ぎても、情熱的過ぎてもダメ。

特にこれからのAI時代においては。

合理的なもの、デジタルな判断は、模倣し放題です。

そしてそこに属人性は必要ありません。

僕たちはAIに判断を委ね、その決定に従い、それを合理的だと思うようになるのでしょうか?

それをユートピアだと見做すのでしょうか?

botみたいなたくさんの言葉。

「再現可能性」なんてそんなにありがたがるものじゃないぜ?

つるんとした顔の、のっぺりとした表情の、ポスト・ヒューマンたち。

シンギュラリティ?

感情すらも0と1に置き換える?

それってディストピアでは?

適切に感情を出していきましょう。