棚上げマン(ウーマン)が嫌いだ

UnsplashRoman Magerが撮影した写真

どの口が言ってんだ?

最近の風潮なのか、はたまた当社だけの流行りなのか、自分のことを棚に上げて他者を批判する人が増えているように感じている。

そして、その度にとても嫌な気持ちになる。

確かに、その批判内容は間違ってはいない。

的を射ているというか、その内容だけを取り出すなら、「そうだよね」と僕も思うような話ではある。

ただ、それと同時に「どの口が言ってんだ?」とは思ってしまう。

このような話型を使う人は、自分自身がその批判内容の該当者であった(同じ過ちを犯していた)というケースがとても多いように僕には思われる。

過去、そのような振る舞いを自分自身がしていたにも関わらず、そのことには一切触れず、他者を糾弾するような口ぶり(それも強烈に)。

そして、それが意図的ではなく、無意識かつ本気であるかのような口調。

反吐が出る。

今日はそんな話である。

完全無罪な人間など存在しない

完璧な人間などいない。

それはそうだ。

だから、過去の過ちについて、何らかの良心の呵責というか、申し訳なさというものを、誰もが持ち合わせているはずだと僕は思っている。

完全な無罪(完全無罪者)など存在しない(誰しも何らかの瑕疵がある)。

それが僕の人間観である。

そしてそれはある種の人間味に繋がるとも思っている。

僕たちは完璧ではない故、他者の失敗に対しても寛容になることができる。

そういうこともあるよね(オレもそうだったし)、と思うことができるようになる。

そこには時制が存在している。

過去からの経緯、積み重ね、そういったものの上に、現在の自己が成り立っているから。

過去も未来も存在しない話法

でも、冒頭に挙げたような人間は、そのことをバッサリと捨象する。

現在時点にしか存在していないように、過去を一切忘却したかのように、話を展開する。

それは動画における「切り取り」のようなものだ。

マスメディアがよくやる「印象操作」のようなものだ。

トゥルースとポスト・トゥルース

物事には文脈がある。

語られなかった言葉や、そこに流れる空気感のようなものがある。

それらを含めたものが、「現実」となる。

もちろん、その「現実」の受け止め方には、人それぞれ、ある程度の偏りがあるだろう。

でも、そこまで大きくはズレないはずだ。

ただ、もし恣意的にその「現実」を切り取り、加工をするなら、そこから生まれる印象は大きく変わる。

そして、その印象を基に語られる言葉からは、別の「現実」が生成される。

その「別現実」を心底から信じ切っているかのように、棚上げマン(ウーマン)達は話をし、その中で他者を強烈に糾弾する。

恥を知れよ。

言葉は汚いが、僕はそのように感じてしまうのだ。

オルタナティブ・リアリティ

そして、このような批判をカウンターサイドにいる人にも僕は持っている。

そのような言葉を信じ、「確かにそれは悪いよね」と安易にそれに乗っかる人に対してもとても嫌な気持ちになる。

繰り返しにはなるが、もちろん「現実」の捉え方にはある程度歪みがある。

それは別におかしなことではない。

でも、その「程度」というか、「乖離幅」は、ある程度のレンジ内に収まるはずだ。

ただ、このような話型を取る人(受け入れる人)は、そのレンジを軽々と越えていく。

結果、「オルタナティブ・リアリティ」みたいなものが生じる。

そこで生きるのは確かに心地が良いのかもしれない。

自分は無罪であり、無垢であり、純粋である(と思える)から。

そして外にいる人は有罪で、不純な悪人である(と思える)から。

このような切り離し(棚上げ)。

僕にはよくわからない。

「一点の曇りもない」は褒め言葉ではない

これは何も「過去を引き摺れ」ということを言いたい訳ではない。

「悪人は悪人なのだから、その過ちに対して後悔し続けろよ」ということではない。

誰だって過ちは犯すから。

僕が言いたいのは、そこに1点の曇りみたいなものを持ち合わせて欲しいということなのである。

それを皆が持ち寄る時、そこには赦しが生まれるのでは?

寛容なり、敬意なり、尊重が生まれるのでは?

僕はそのように思うのである。

「悪いのはアイツらだ」

正義の乱用。

そして、自己との切断。

このような態度は、もしかしたら世界中に溢れているのかもしれない。

そうすれば、「悪いのはアイツらだ」と言い続けられるし、自分は正義の側に立ち続けられるから。

世界はシンプルになるから。

でも、フェアではないよね、と僕は思ってしまう。

リスク・リターンは等価であるべきだ

僕は「リスク・リターンは等価である」という価値観を持っている。

そこから離れる時、乖離が生じる時、僕はそれを不快に感じる。

正義を語るのは別に構わない。

ただ、それ相応のリスクは負った方がいいぜ?

じゃないと、痛い目を見るから。

ハラスメントとは?

キレイゴトを言う人たち。

でも、両手は汚れている人たち。

そういう人たちの空疎な発言。

それに賛意を示す無知な人たち。

僕たちはそれを黙って受け入れるべきなのか?

脳的な発言身体的な不快感

そのような関係性を壊す為のある種の暴力性。

それが必要な気がしている。

「テメエ! ふざけんなよ!」はパワハラで、棚上げマン(ウーマン)が他者を糾弾するのはOK?

僕にはよくわからない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「コンテンツ(内容)よりも誰が言っているか?」

それがマネジメントにおいては(というか、人生全般においては)重要であると僕は考えています。

どんなに良いことを言っていたって、ソイツがどうしようもない奴であれば、それを皆が知っているのであれば、意味を為すことはありません。

言葉と行動を一致させて(言行一致させて)いきましょう。