つまらなそうにスマホゲームやるおじさんにはなりたくないぜ
つまらないならやめればいいのに
毎日電車に乗って会社に行っている。
その度に、死ぬほどつまらなそうにスマホゲームをやっているおじさんに出くわす。
「つまらないならやめればいいのに」
そんなことを思う。
もちろん、思っているのは僕であって、実際につまらないかどうかは判然としない。
ただ単純に顔つきがつまらなそうなだけであって、純粋にスマホゲームを楽しんでいるのかもしれない。
ただ、もしそうだとしても、つまらなそうな顔つきのおじさんにはなりたくないなとは思ってしまう。
僕も中年になり、彼らの気持ちがわからない訳ではない。
仕事にやりがいを見出すことは段々と難しくなるし、かと言って、何か刺激的なことが起こる訳でもないし。
同じような日々の繰り返し。
そこにモチベーションがないことも十分に理解できる。
ただ、それでもさ、と僕は思うのである。
ああはなりたくない。
今日はそんな話である。
惰性でゲームするおじさんたち
最初に断っておくけれど、おじさんが通勤電車でゲームをやることがいけない、ということを言いたい訳ではない。
通勤電車なんて暇つぶしの時間に過ぎないので、何をやっていたって別にいいじゃないかと僕も思う。
ただ、何というか、そこに臨むスタンスというか、それがどうにも見ていてしんどいのだ。
彼らは惰性でスマホゲームをやっている。
そこに面白さとかやりがいとか、きっと何も感じずに、ただ昨日もやっていたからやっている、電車に乗ったらそれをやることになっているからやっている、そんな印象を受けるのである。
もちろん、それは僕がそのように感じているだけで、実際のところはわからない。
物凄いモチベーションでそれをやっているのかもしれない(もしそうならそれはそれで問題だろうけれど…)。
でも、どうにもそうは思えないのである。
意思のないマシンのようだ
表現が難しいのだけれど、これが有料のゲームであれば印象が違うようにも思う。
自分でお金を払って、そのゲームをやりたいからやっているのだろう、という印象を僕も持てるのかもしれない。
そういう意味では、惰性で何かをやることに対して僕は嫌悪感を覚えているのだろう。
もちろん、僕だって惰性で何かをするということがない訳ではない。
言ってみれば、仕事に行くことそれ自体が惰性であるし。
ただ、そうは言っても、何らかの意思の混ぜ込みみたいなものはあるとは思うのだ。
それがなければ、ただのマシンみたいになってしまう。
そうなのだ。
僕が彼らに感じる印象というのは、正にそのような感覚なのである。
人生とはそんなにもつまらないものなのだろうか
きっと、彼らの中には、会社の中でそれなりの地位に就いていたり、それなりの仕事をしている人もいるのだろう。
そこでのプレッシャーにおける反動から、電車の中くらい腑抜けになったっていいじゃないか、というのもわからなくはない。
年がら年中、気を張っていろというのは無理な相談であるから。
ただ、同時に、人生というのはそんなにもつまらないものなのだろうか、と僕は思ってしまう。
そして、そのようなつまらなさに対して、何らかの抗いのようなものをしてみようとは思わないのだろうか、と僕は思ってしまう。
まあ偏見ですが…
繰り返すが、あくまでもそのように思っているのは僕だけで、実際には全然違うのかもしれない。
彼らは人生をエンジョイしているのかもしれない。
だとしたら、それは本当に申し訳なく思う。
ただ、僕から見える彼らは、もう半分人生を投げてしまっているようにも思える。
それは役職がどうとか、仕事内容がどうとか、そういうことではなく、単純に生きていくことに対してつまらなく思っている、そういう感じなのだ。
無抵抗感
もちろん、その感覚は僕にもよくわかる。
確かに人生はつまらない。
仕事だって住宅ローンを返済する為に行っているだけに過ぎない。
でも、だからと言って、そのつまらなさに100%身を任せる、というのも違うのではないかと僕は思う。
焦点の合わない目でスマホゲームをやること、そうやって無為に時間を過ごすことによって、更に自分の人生をつまらなくしているように僕には思えてしまう。
無抵抗感というか、被虐者感というか。
わかった風な顔というか。
せめて好きなゲームをやれば?
別に意識高い系のように、通勤時間を有意義に過ごせと言いたい訳ではない。
ただ、その時間くらい、自分を取り戻すことに使ってもいいのではないか、と僕は思ってしまう。
会社でも家庭でもないその時間に、同じような顔を続ける必要なんてあるのだろうか、と僕は思ってしまう。
せめて好きなゲームをやれよ。
僕が思うのはそういうことである。
好奇心を失うから老いる
体温を上げる行為。
それをハナから諦めているおじさんたち。
別に日本社会を嘆きたい訳ではないけれど、ああいうおじさんにはなりたくないと僕は思っている。
そこにはきっと好奇心の欠如が関係している。
好奇心と老化は反比例している。
歳を取るから老化するのではない。
好奇心を失うから老化するのだ。
もう少し楽しもうぜ?
好きなことをやろうぜ。
やりたいことで楽しもうぜ。
僕が思うのはそういうことである。
何だかよくわからない話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
変な文章になりましたが、つまらなそうな大人がたくさんいて、その人たちが抗うこともなく流されている(であろう)現実に、ちょっとモノ申したくなって余計なことを書いてしまいました。
僕は「やりたいことをやる」とか「言いたいことを言う」とか、そのような自由意思の発露のようなものが、もう少し日本社会においても市民権を得た方がいいのではないか、と考えています。
やりたいことをやること、言いたいことを言うこと、は悪ではありません。
もっと言えば、人生を楽しむことは悪ではありません。
無表情で、仕方なくこうするしかないのだと被害者感を出すのは簡単ですが、それに少しでも抗ってみることで人生は少しだけ楽しくなるはずです。
誰かのせい。
何かのせい。
それによって、虐げられている自分。
それは事実かもしれませんが、そのような自己像によって、人生を主体的に生きる責任を放棄している(それによって自分を守っている)ようにも見えなくもありません。
リスクテイクと責任テイク。
そうやって自分の人生を主体的に生きていきましょう。