善意に頼った運営はもう限界

UnsplashTim Arterburyが撮影した写真

自己満と言えば自己満の世界

「ここから先はボランティアなんだよな…」

仕事をしているとそんなことを思ってしまう時がある。

そして、それはあまり良くないことであるという自覚を伴っている。

会社が求めている水準や、決められたルールだけをクリアするのであれば、本来必要のない数々の物事。

でも、そこには欠かすことができないものが含まれており、だからこそ僕としてはそこに対価や評価がなくてもやり続けている、そんなことを考える時がある。

ここに不遜さという風味付けをすると、それがあることによって、チームなり会社が何とか今のままの形を保つことができている(逆に言えば、それがなくなればチームや会社は崩壊する)、そんなことすら思ってしまう。

これは言い方を変えるなら「自己満」の世界の話である。

誰が求めている訳でもない、仕事の質への拘り。

ただ、それがなくなったら、僕だけでなく多くの人がそれを馬鹿らしく思い、やめてしまったら、それこそタガが外れたように会社はダメになってしまうのではないか?

そして、そこから派生して思うこととして、そのような多くの現場の人達の善意に頼った運営はもう限界なのではないか、ということがある。

従来であれば、会社や上司、同僚への想い(エンゲージメントのようなもの)があったから、何とか踏みとどまってやっていた数々の仕事。

でも、それすらも馬鹿らしく思えてしまうような、数々の下らない出来事。

そんな中でも、会社を会社として機能させるようにする為にはどうしたらいいのだろうか?

今日はそんな話である。

「数値化されないけれど大事な仕事」を善意に頼ったままにしていることに問題がある

カネにならないことはやらない。

評価にならないことはやらない。

KPIを代表とした「数値化」の流れの中で、このような考え方を露骨に出す人が非常に多くなってきたように感じている。

でも、それ自体は別におかしなことではない。

評価されるから、そしてそこに対価が発生するから、人は動くわけで、そこにある種純粋に反応している人達を批判することはお門違いですらある。

そういう意味では、問題は「数値化されないけれど大事な仕事」を誰かの善意に頼ったままにしているマネジメント側にあるのだと僕は考えている。

評価とそれを目指す動き

これは評価方法の策定過程に問題があるとも言えるし、「数値化できるもの以外も評価しなければならないよね」という考え方の導入(復権?)が必要であるとも言える。

前者に関して言えば、そもそもの評価対象項目が間違っているか、目が荒いということがその問題の根本にあるような気がしている。

「仕事における人間の行動(ある種不可視なもの)を可視化する為に、KPIを置き、評価の参照値とする」

その方向性は確かに必要だ。

でも、そのKPIとして置かれたものの意味や本質についてはきちんと理解しておく必要がある。

そして、そのKPIを良くするために、被評価者がどのような動きをしているのか(する可能性があるのか)というところまで押さえておく必要がある。

数値化の罠

「数値化」には罠がある。

それは「数値を良くするための打算的な動きを抑制できない」ということである。

ある数値が打算によって築かれたものなのか、そうでないものなのかは判別しづらい。

そして、それはある種判別すべきでないとも言える。

となると、数値化には限界があって、それ以外の方法による評価が必要となる訳である。

それが先程書いた後者に値するものである。

透明性と不透明性

「数値化できる以外のものも評価する」という考え方の復権。

僕からすれば非常に当たり前の話であるが(というかこれを行うのが本来のマネジメントの役割なのではないか?)、この部分が現在は非常に蔑ろにされているような気がしている。

というのも、どうやら多くの人は評価に「透明性」を求めているようだからである。

確かに評価に透明性は必要だ。

昭和時代のようにブラックボックスの中で、ある種好き嫌いで評価が決定されるのではたまったものではない。

ただ、そうは言っても、数値化できないものはどうしたって残る。

そこには「不透明性」がどうしたって入り混じる。

でも、その不透明的な仕事をしている人が、実はチームなり会社を支えている場合がある。

そのことにもう少しマネジメント側は意識を向けるべきであるように思うのだ。

そして、そのような善意を掬い上げる枠組みの構築が必要であると思うのである。

不透明なものは専制的に評価してしまってもいいのでは?

僕は評価というのは不透明な要素があっても仕方がないと考えている。

もちろん、最大限透明化すべく努力はすべきである。

でも、それは不可能だ。

というか、透明化されたものだけで評価するとするなら、バイタル値みたいなものまで測定しなければならないと僕は考えている(この話はまたどこかで)。

とするなら、不透明なものを評価することへの合意みたいなものが必要になる。

いや、合意でなくても構わない。

もしかしたら専制的に決めてしまってもいいのかもしれない。

それはある種のアートであるから。

人間の評価にはサイエンスだけではなく、アートも必要であるから。

そして、そのようなアートに基づいた評価にも、きちんと対価を支払うべきなのだ、きっと。

サイエンスとアート

少なくとも、善意に頼った運営にはもう限界がきている。

アートを理解できる評価者の育成がたぶん今必要なのだ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

「アートの評価は難しい」

「でも、人間の評価ってそれに近いのでは?」

僕が(たぶん)本文で言いたかったのはそういうことです。

現在はサイエンスに基づく評価を行う方向に舵を切り過ぎているのではないかという問題意識がそこにはあって、サイエンス的に評価される人というのは面白みがないよな、という個人的な感覚もそこには含まれています。

また、アート的な仕事というのは現在の評価軸においては「ボランティア活動」として捉えられてしまう可能性がある、それってちょっと違うのではないかとも僕は考えています。

KPIは人間を小ぶりにします。

大物も併せて評価していきましょう。