テンションが上がる仕事を

UnsplashPeter Lloydが撮影した写真

仕事は評価される為にやるもの?

評価と被評価ということをこのところずっと考えている。

というのも、最近は評価されることに重きを置きすぎているように感じるからである。

綺麗事を言うようで恐縮であるが、仕事って評価される為にやるんでしたっけ?

僕はそう思うのである。

もちろん、評価は大事である。

評価されなければやる意味がない、それも一理あると思う。

でも、あまりにもそちら側に行き過ぎた結果、仕事は予定調和的になり、面白さを失っている、そんな風に思うのだ。

そして、これは成果主義の弊害なのかもしれないな、とも思っている。

評価というものが成果と直結し、それが処遇に反映されるなら、そこに向かって猛進するのは何らおかしなことではない。

むしろ、「評価されないことをやって何になるの?」という考え方の方が自然となる。

ただ、本当にそうなのだろうか?

今日はそんな話である。

それでは始めていこう。

評価の透明化によって成果は上がったのか?

評価の短期化。

決算期化。

そんなことを思う。

大事なのは「その期」の実績であって、中長期的にそれがどう化けるかということはあまり問われなくなったのが現代の評価制度であると僕は思っている。

確かに、「中長期的成果」というのは何をもって成果とするのか曖昧なものではある。

ある種言ったもん勝ちというか、未来になってみなければ実際のところはわからないから評価するのは難しい、それも理解できる。

そして、そのような不透明性を評価に持ち込んでいたから、人々のモチベーションが下がっていたのだ、評価はもっと透明に行うべきだ、という主張もよくわかる。

さて。

僕が問いたいのはこの部分である。

評価が透明に行われるようになった結果、人々のモチベーションは上がったのだろうか?

もっと言えば、そのモチベーションの向上によって、成果の向上は見られたのだろうか?

ここに僕は疑問を持っている。

小利口な奴だけが評価されているのでは?

評価が透明化された結果、人々は評価されるものをめがけて行動するようになった。

例えば、その1つとして、KPIというものがある。

定性的な項目をそのままの状態で評価すると透明性が失われるから、それを定量化し、透明性を増した状態で評価しようという動き。

それ自体は別におかしなことではないと僕も思う。

でも、それが行き過ぎると、点取り合戦のような様相を呈してくる。

トリビアルな話というか、どうやったら効率よく点が取れるかという方向に意識が向いていく。

それが上手な者(小利口な者)が評価されるようになる。

これって良いことなのだろうか?

僕は疑問を持っている。

秀才を選別するには良さそうだけれど…

これは学校での成績評価に似ているような気もする。

それも相対評価に似ているような印象を僕は持っている。

クラスや学年の中で、どうやったら相対的に評価されるか。

それもコスパ良く評価されるようになるのか。

それを競うあの感じ。

そして、当時の僕も、テストで高得点を取る奴が必ずしも頭が良い訳ではないのではないか、ということを考えていた。

もちろん、テストというのは一つの目安にはなる。

でも、「知」というのはそれだけでは測れないものであるし、測るべきでもない。

違ったモノサシが必要となる。

わかりやすく言うなら、秀才と天才の違いのようなもの。

そう。

現代の評価・被評価制度は、秀才を選別するにはとても有効であると僕は思う。

でも、そこから外れる天才は評価できない。

ただ、望外な成果を上げるのはその種の天才なのではないか?

そこに僕が覚える違和感があるのだ。

計量可能なもの(だけ)を評価して成果が上がるのだろうか?

評価を科学的に突き詰めていくと、「計量可能」という概念が必ずついて回る。

「測定できるものは科学的であり、そうでないものは非科学的である」

それは事実だろう。

でも、人間のパフォーマンスというのは、そういうものなのだろうか?

計量可能なものを評価することが普遍化した現在、仕事に対してモチベーションが上がっている人はどれだけいるのだろうか?

また、成果がそれによって向上しているのだろうか?

僕には疑問である。

非計量的なものが面白さと、その先の望外な成果を生み出すのでは?

もちろん、ベースは計量可能なもので評価をすべきであると僕も思う。

ただ、100ある内の20くらいは非計量的な要素を盛り込んでもいいのではないか、と僕は思っている。

「何だかよくわからないけれど面白そうだ」

それは現代社会においては、認められづらい種類のものであるような気がしている(何でもかんでもエビデンスを出せというのが現代社会であるから)。

でも、そのような「はみ出し」が仕事を面白くし、人々のモチベーションを向上させ、結果として望外な成果をもたらすのではないか?

成果主義と評価至上主義は違う

僕は成果主義を信奉している。

ただ、単線上にあるものだけを評価すべきではないとも思っている。

リープ(跳躍する)もの、それがなければ、成果主義は(被)評価至上主義に堕してしまう。

ある種の畏怖のようなもの。

面白いから(テンションが上がるから)やる、というどうでも良さ。

それが成果主義を動的なものにしていくのではないか?

僕はそう思うのである。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

評価至上主義。

最近は成果主義ではなく、評価至上主義が幅を利かせているように感じています。

もちろん、この2者は近しいものではあります。

でも、ニュアンスは全く違う。

それがわからなければ、凡庸な成果しか出せません。

評価されるだけでなく、自分が面白いと思える仕事もやっていきましょう。