正論はつまらんな
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予定調和的予定調和
「枠組みに忠実な奴ばかりだぜ」
最近僕が思うことである。
そして、これは社会が正しさを求めすぎているからなのではないか、そんなことまで思ってしまっている。
(とても失礼な話ではあるが)botと話をしているのではないかという錯覚に陥りそうになるくらいに。
予想通りの回答。
型通りの反応。
そんなヤツばかり。
だったら、ChatGPTと話していた方が数段マシ。
そんなことを思ってしまう。
予定調和的予定調和。
そんなことばかりが繰り返され、議論というものが成り立たない(というか意味がない)ように感じている。
そりゃイノベーションなんて生まれんわな。
今日はそんな愚痴めいた話である。
それでは始めていこう。
異物の混入がイノベーションを生む
「対話により創発性が生じる」
僕はイノベーションというものをそんな風に捉えている。
自分だけの世界を打ち破る為の他者の介入。
異物の混入による化学反応。
免疫系(ワクチン)のようなもの。
もちろん、自分だけの世界だけに留まっていれば心地が良い。
何にも侵害されず、平穏に過ごせる。
でも、そこには波は生じない。
「いつまでも幸せに暮らしました」
そんなありきたりなおとぎ話のエンディングを求めているなら、それでもいいのかもしれない。
でも、つまらない。
圧倒的に退屈である。
そんな会話ばかり。
それなら会議なんていらないし、議論なんていらない。
僕はそのように思ってしまうのである。
既知のことを繰り返すだけの発言
「わかっていること(既知のこと)をなぞるだけの発言を発言とは呼ばない」
僕はそう考えている。
でも、そう考えているのは僕だけのようだ。
みな当たり前のことをさも重要そうな口調で言っている。
ただの繰り返し。
So What?
僕はそう思う。
正しいけれど、つまらない
でも、そのように思う僕の方がどうもおかしいようだ。
「正しさ」の隙のなさ。
みなそこに囚われ過ぎである。
枠内に収まること。
そこからはみ出さないこと。
そうやっていれば、永遠の平和を得られるとでも思っているのだろう。
かりそめのユートピア。
僕からすれば永遠のディストピア。
古いSF映画のような分かりきった問い掛けとその応答。
愛想笑い。
実に下らない。
これ何の時間?
破壊的イノベーション。
毛繕いはもうやめないか?
既成のものを壊すこと、その概念を疑ってみること、そこからイノベーションは生じる。
傷の舐め合いでは、何も進まない。
当たり前のことをなぞるだけでは、議論は停滞したままだ。
波を立たせたい
空気の読めない発言。
僕はそれを会議の池に投げ込む。
余計なことしやがって。
そのようなたくさんの冷たい視線と失笑。
飛び散った水滴と、広がる波紋。
動揺する人々。
僕はそこで気狂いのように笑っている。
正しさの王様化
違和感は昔から。
でも、最近はその傾向が更に強くなっているようにも感じている。
「正しさ」の浸透。
というか、王様化。
正しさこそが至高であり、それ以外の概念は後順位である。
そのような考え方。
それに適応できる者を優秀と呼び、そうじゃない者を拙劣と呼ぶ。
「適応は優秀さの尺度じゃないぜ?」
そんな僕の声は簡単にかき消され、皆相変わらずプログラミング通りの発言を繰り返し続けている。
入力通りの出力を吐き出し続けている。
きっとそのようなプロンプトがあったんだろうな。
正論には意図がない
生成AIと大規模言語モデル。
それを知性と呼ぶのかね?
僕にはよくわからない。
でも、もしそれを知性と名付けるなら、確かに人間はそのような存在に近づいているようにも思える。
人間のAIへの歩み寄り。
手元にあるものを吐き出すだけなら、それは確かに人間もAIも変わらんわな。
というか、文章の羅列に知性を感じるのが僕たち人間というものなのだろうな。
そこに意図なんてなくても。
そうなのだ。
正論には意図がない。
でも、僕はその意図にこそ、その人がそこにいる意味があると思う。
想いが知性を知性たらしめるのでは?
動機。
意思。
まあ言葉は何でもいい。
でも、その想いのようなもの、それこそが人間を人間たらしめるもの、知性を知性たらしめるものなのではないか?
意図と意図っぽいものは違うぜ?
確かにAIも「意図っぽいもの」を吐き出すことはできるだろう。
そして、それを僕たちも意図だと勘違いするだろう。
でも、アイツらに意図なんてないのだ。
それと正論を言う奴は同じなのでは?
プロンプトに従うな
脳内にある大規模言語モデルから出してきた言葉の羅列。
それを僕たちは意見だと勘違いする。
違うぜ?
そこには意図なんてない。
動機なんてない。
「正しさを吐き出せ」というプロンプトに従っているだけだ。
そして、それならChatGPTの方が数倍も優秀だ。
人生は欲望だろう?
見当違いのことを言えよ。
そこに意図があるなら。
的外れで構わないよ。
僕たち人間はそれを理解できるから。
その背後にある想いを汲み取れるから。
大事なことは意思だ。
何をしたいか、どうしたいか、という想いだ。
それがなければ、前になんて進めない。
Life is a desire, not a meaning, isn’t it?
何がしたい?
意思を混ぜ込めよ。
正しさはもういいよ。
お前はどうしたいんだ?
どういう世界を望んでいるんだ?
それこそが世界を動的にするのでは?
静的な大規模言語モデル
LLMは静的な世界だ。
お前は人間みたいなボディを持っているけれど、それを剥いだらただのAIだろ?
変な話になった。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
意図の有無が知性の分かれ目なのでは?
そんなことを考えています。
AIがいずれAGIに進化すると考えている人に対して僕が思うのは、そこに意図(もしくは意図と呼べるもの)があるのか、ということです。
それはある種の「心の問題」とも言えるかもしれません。
そして、正しさの羅列を競う現代という時代は、心のない時代と言い換えることができるのかもしれません。
自らAIに近づいていってどうする?
僕が思うのはそんなことです。
意味が分からないかもしれませんが、懲りずに引き続き読んで頂けたら幸いです。