不作為も罪じゃね?
不作為とジョブ型雇用
不作為:敢えて積極的なことをしないこと。本来するべき行為をしないこと。
それが職場に蔓延しているような気がしている。
そして、それは「行為」ではないので、露見しづらく、当然罪にも問われない。
それってどうなのだろうか?
何か行為をすると、それがハラスメントになったり、責任が降りかかってきたりするのが、現代日本社会ではある。
それを避けたい、その気持ちはよくわかる。
また、最近では、ジョブ型雇用(ジョブ・ディスクリプション)がこれに拍車をかけている。
というのも、ジョブ・ディスクリプションが自身の仕事の範囲を極小化することに正当性を付与し、それが結果としてコスパの良い働き方に繋がる訳からである。
ジョブの名の下に、限られた仕事しかしようとしないたくさんの人たち。
「それは私の仕事ではない」と平然と言い放つ彼(彼女)たち。
それは確かに個人の行動としては合理的と言えるかもしれないけれど、組織内の成員の大半がそのような動きを取った時、大きな問題が生じる。
合成の誤謬。
それでいいのだろうか?
今日はそんな話である。
それでは始めていこう。
目標以外のことはやる必要がない?
成果主義と目標管理制度。
期初に自身の目標を立て、期末にその達否状況を評価すること。
それによって、「目標以外のことはやらない」という人が増えている。
そんなことを思う。
また、それと同時に「目標以外のことをやる必要なんてないよね」ということも頭に浮かんでくる。
となると、そもそもの目標設定が間違っているのだろうか?
というか、仕事で為すべきことを事前に目標という形で網羅することはある種不可能であるのではないのだろうか、ということを考えてしまう。
問いと答えの循環
「それなら、事後的に目標以外のことをやったことを評価したらいいのでは?」
「いや、でもそうすると、目標を立てる意味自体が形骸化してしまうのでは(そもそも目標とは何なのか)?」
そのような問いと答えが頭の中でグルグルしている。
ジョブ型雇用って良いの?
世間ではジョブ型雇用が持て囃されている(持て囃され始めている)ようだけれど、僕はそれに懐疑的である。
また、目標管理制度のようなものについても疑問を抱いている。
というのも、仕事というのは「それだけではない」と思っているからだ。
そして、「それだけではない」部分に重要なことが含まれていると考えているからだ。
個人個人のパフォーマンスの最大化=集団のパフォーマンスの最大化?
もっと言えば、「ジョブ」や「目標」というのは個人単位で規定できるものなのだろうかとも思っている。
それを個人単位で規定するから、仕事の範囲を極小化することが得になるような気もしている。
話はここからちょっと脱線するけれど、これは「集団のパフォーマンスをどのように考えるか」ということでもあると思っている。
「個人個人がその能力を最大限発揮すれば、集団としてのパフォーマンスも上がるはずだ」
それがジョブ型雇用や目標管理制度の後ろ側にある考え方であると僕は思っている。
確かにそれはそうなのかもしれない。
でも、僕は「集団知」みたいなものの方が集団のパフォーマンスを上げる為には重要なのではないかと思っている。
コミュニケーション負荷の減少と集団知の鮮度維持
皆さんもご経験があると思うけれど、集団としてパフォーマンスが上がるチームとそうでないチームがある。
その違いは「チーム内外の空気が良く循環するか否か」にあると僕は考えている。
これは空気が良く循環すると、集団内における知の基準が均一化し、コミュニケーション負荷が減るからである。
また、外部からの新たな刺激が定期的に入ることで、その集団知が淀まなくなるからである。
こうして集団自体の基準が上がっていく。
個人成績は、集団のパフォーマンスが上がらない限り、良くならない
でも、ジョブ型雇用や目標管理制度はこれを分断する傾向を持っているように僕には感じられる。
集団知(クラウドのようなものをイメージして頂くとわかり易いかもしれない)よりも、個人知の方を重要視しているというか。
野球のことは詳しくないけれど、各選手の個人成績が良ければチームも強くなると考えられているというか。
これは確かにそうなのかもしれない。
でも、各選手の個人成績が良くなる為には、集団のパフォーマンスが良くなる必要があると僕は考えている。
だから、「各選手の個人成績が良くなればチームも強くなる」という言葉は、それ自体は間違っていないのだけれど、実現可能性はない(低い)ものだと思うのだ。
集団のパフォーマンスが上がることなくして、各選手の個人成績が上がることはない。
でも、それが実現可能だと思っている。
そこにジョブ型雇用の問題点があると僕は考えている。
不作為は分断を生む
そして、今日のテーマである不作為がそれに拍車をかける。
自分のことしかやらないことによって、チーム内外の空気の流れは寸断される。
またそれが多くのメンバーによって行われるようになると、チームは完全に分断される。
チームに集団知が蓄積されることはなく、個々人がそれぞれ個人戦を戦うだけになる。
結果、集団のパフォーマンスも落ちるし、個人のパフォーマンスも落ちる。
だから、「それだけではない」仕事をしている人をきちんと評価する必要があるのだ。
それでいいの?
リスクを取ろうとする人、責任を負おうとする人、そういう人がジョブ型雇用からは零れ落ちる。
不作為の人が良い思いをする。
それが望んだチーム(社会)なのですか?
僕はそう思うのである。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
本文では上手く書けませんでしたが、「個人のパフォーマンスを上げる為には集団のパフォーマンスを上げる必要があって、その為には不作為をしている人を減らす(もしくは0にする)必要がある」ということを僕は言いたかったのだと思います。
またそれに付け加えるなら、「集団のパフォーマンス向上に寄与する人をきちんと評価すべきであるが、そのような評価軸は現在のジョブ型雇用や目標管理制度では担保できないのではないか」とも考えています。
となると、方向性としては、集団のパフォーマンス向上を目標に据える必要があるということなのだろうと思います。
もしくは、目標に据えずとも、結果としてそのように集団のパフォーマンス向上に貢献した人を評価すればいいのかもしれません。
少なくとも、「やらないことがお得」になる制度は即刻やめるべきです。
真っ当に働く人を真っ当に評価していきましょう。