問い返しに慣れよう

UnsplashSebastian Herrmannが撮影した写真

心理的安全性を確保する為に

今日は前回からの続きである。

日本企業においては相互不可侵条約が結ばれており、また自己責任論の昂進によって、人々は分断され、仕事はどんどんと個人化するようになった。

それにより、職場には一見何の問題も起きていないように見えるのだけれど、ジワジワとその劣化が進んでいる。

そして、いつか崩壊する。

それを防ぐ為には、「仲よくケンカする」ことが必要であると書いた。

また、「仲よくケンカする」為には心理的安全性を確保する必要性があり、それを確保する為には対話を継続するしかない、というところまでが前回のおさらいである。

さて。

では、そのような心理的安全性を確保するための対話に必要な条件とは何なのだろうか?

それを考えていくのが本稿である。

そして、その1つの回答として、「問われること(問い返し)に慣れる」ということを提案したいと思っている。

多くの上司との対話は、対話のように見えるけれど、その内実は勅令のようなもので、上から下へただ指示が下りていくだけ、それが実際のところなのかなと僕は考えている。

これは上下関係身分のようなものを想起させる。

そして、下の立場にある者は、上の立場にある者の言うことをそのまま受け入れる方が望ましいと考えているというか。

「それを変えませんか?」というのが僕からの提案である。

それでは始めていこう。

「なぜやるか?」よりも「どうやるか?」が重要視される社会

「野暮なことは言わない」

それが日本社会を上手に生きる上で必要な所作である。

上司の言うことは絶対的に正しいのだから、そこに疑問を持つなんてことはもっての外で、「意味」や「意義」を考えるのではなく、それを受けて「どうやるか」が大事であり、その能力が優れている者が「優秀」である、というような考え方(というか文化)。

「これをそろそろ改めないか?」

そんなことを僕は考えている。

問いと応え

もちろん、何でもかんでも波風を立てるのは大人の作法ではない。

「なぜなぜ坊や」のように上司に食ってかかる、というのも明らかに違う。

僕が言いたいのは、「上手に問うこと」「それに応えること」が当たり前の状態になったら、心理的安全性は確保されるし、その状態が「仲よくケンカする」ということなのではないか、ということである。

答える人の方が優秀?

日本企業で長く働いていて、それも管理職でそれなりの期間を過ごしていて、僕が感じるのは、「問う人」よりも「答える人」の方が出世するということである。

もちろん、答える人も重要だ。

それを否定したい訳ではない。

でも、それだけでなく「問えた方がいいのではないか」と僕は考えている。

以下、もう少し詳しく書いていく。

「答える」ことが重要視される社会

これからの時代に求められるのは「問い」だ。

これは昔から書いていることでもある。

答えが用意されていないのが現代社会である。

その中で自ら問いを立て、トライ&エラーを繰り返しながら、漸進していく姿勢。

これが現代社会における優れたビジネスパーソンの定義(資質)だと僕は考えている。

でも、そのような仮説構築ができる人はあまりいない。

ましてや、上記したような日本企業で優秀とされている人の中には殆どいないと言っても過言ではない。

それは日本社会が「答える」ことを重視した社会であるから。

そのように僕は考えている。

収束と発散

「答える」ことを重視した社会は安定的である。

それは(以前にも書いた)予定調和内に物事が収まるからである。

でも、「問い」は違う。

「問い」はどこに行くかわからない。

物事が発散していく可能性がある。

それは秩序を乱す動きとも言える。

でも、それこそがブレイクスルーを生み出し、イノベーションに繋がっていく。

「問い」は秩序を乱す

ただ、これは「問われる側」にとっては由々しき事態である。

秩序が脅かされるから。

何なら批判的な内容が含まれることだってあるから。

でも、それにそろそろ慣れる必要があるのではないか?

僕はそのように考えている。

問いと応答=カイゼンでは?

「問うこと」は「批判」ではない。

当然ながら、口答えではない。

物事をより良くするためには、その意味や意義を問うことが不可欠だ。

議論することが欠かせない。

そのような対話を繰り返しながら、物事はアップデートしていく。

それも僕たち日本人であれば、上手に調和を取りながら、その議論ができるはずなのだ。

適切な「問い」とその「応答」により、物事をカイゼンしていくこと。

それによって、僕たちは成功してきたのではないか?

別に目新しいことではない。

ただそれをまたやればいいだけなのだ。

問おう。応えよう。

いつの頃からか、そのような文化が失われてしまったように思う。

でも、少なくとも僕が会社に入った頃(そこまで昔ではない)には、それはまだ残存していた。

だから、今会社に残っている大半の人は、その文化の中で仕事をしていた訳である。

それを取り戻すだけでいいのでは?

余計だと思って切り捨てたモノの中に、たぶん僕たちが復活する術が眠っている。

それを取り戻そう。

面倒くさがらず問い、それに応えよう。

それではまた。

いい仕事をしましょう。

あとがき

日本ダメ論日本マンセー論。

そのどちらにも与せず、アリモノをどうにか駆使しながら再生の道を探りたい。

それが僕が今考えていることです。

そして、「問いと応え、そこからのカイゼンのサイクル」というのが、僕なりの現在地点での回答です。

ここには「受け側の余裕」が不可欠です。

秩序を脅かされることを封殺せず、それを面白がること。

「なぜ?」と問われた時に、用意された通り一遍の回答をするのではなく、それを共に考えていくこと。

「答え」ではなく、「答えを共に考えていくこと」に価値を置くこと。

それが日本が取るべき道なのでは?

そして、それは別に目新しいものではなく、かつてあったし、まだそこに眠っているものなのでは?

仲よくケンカしていきましょう。