X理論・Y理論

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信賞必罰・アメとムチ

マクレガーによるX理論・Y理論について今日は書いていく。

 X理論…人間は本来怠け者であり、強制や命令がなければ、仕事をしない(性悪説)

 Y理論…人間は生まれながらにして怠け者であるわけではなく、条件によっては自ら責任を負おうとする(性善説)

多くの企業においてはX理論によるマネジメントが行われている。

信賞必罰、アメとムチ、というのもここに含まれる。

目の前にニンジンをぶら下げれば人間は動くし、恐怖感を与えれば自然と働くようになる。

それによって、部下を「コントロール」することが「マネジメント」である。

人間を動かすものは外部にあって(外的動機)、それを上手く使うことで効率的に仕事を遂行させる、それが上手な者が優秀なマネージャーである、そんな風に考える。

労働時間は少なければ少ないほど人生は豊かになる?

職場で怒鳴るのも、過剰に褒めるのも、マネージャーがきちんとマネジメントをやっていますよ、ということを上司にアピールするためのパフォーマンスであると考える僕にとっては、このような人間観にはうんざりさせられるのだけれど、大抵の仕事というのはこのように行われている(大抵は無意識にだとは思うが)。

結果として、仕事はつまらないものになっている。

仕事というのは苦役と同義であり、出来る限り労働時間を減らす方が人生は豊かになる

ワークライフバランス、なんて言葉もこのX理論的な思想によるものだ。

仕事と生活という二者択一的なものを想定して、そのバランスを適切にとりましょう、という考え方自体が僕からしたら、仕事というものの価値を下げてしまっているように感じる(というか、二者択一という思考方法はできることであれば避けた方がいいと僕は考えている。それはとても切れ味の良いものであり、「わかりやすい」ものであるが、ある種の思考停止であり、「詐欺師たち」の常套手段でもあるので注意が必要だ)。

社畜論から脱することは不可能なのか?

僕たちは奴隷のように、馬車馬のように、誰からの監視がないと、誰かからの鞭に怯えないと、仕事ができないのだろうか。

社畜論から脱することは不可能なのだろうか。

僕は不可能ではないと思っている。

そしてそれをマネージャーとして実践している(その手法等についてはこのブログ内に書いている)。

「功利的な」Y理論

誤解して欲しくないのだけれど、これはユートピア的思想とは違うものだ。

人間は善良な生き物であり、その自由な発想を活かすことこそが人間らしい営みなのだ、みたいな考え方は僕にはない。

僕はあくまでも「功利的に」Y理論を用いている。

それは単純にその方が成果が上がるからだ。

X理論への誘惑とその限界

恐怖に支配された動機というのは恐怖がなくなった時点でなくなってしまう。

そこに天井が生じてしまう

その恐怖を排すること自体が目的となってしまって、それを超えた部分について誰もやろうとはしなくなる。

それがX理論の限界だ。

しかしながら、X理論に基づいたマネジメントはマネージャーが「仕事をしている」ように見えるから厄介だ。

上司からすると、X理論を実践しているマネージャーはきちんとしたマネジメントを行っているように見えるので、駆け出しのマネージャーや自信がないマネージャーがX理論に基づいたマネジメントをしたくなるのはとてもよくわかる。

その誘惑はとても強いものだ。

特に成果が上がっていない時には

深刻な事態であるからこそユーモアが必要なのに

想像してもらえばわかると思うが、業績が低迷している時に怒鳴っているマネージャーと笑っているマネージャーがいるとして、あなたがその2人のマネージャーの上司だとしたら、怒鳴っている方に信頼を置くだろう

一方、笑っているマネージャーに対してはなんて不届きな奴なのだろう、と感じるだろう。

僕はこの後者の不届きなマネジメントをしているので、どうやったって職場で浮いてしまうのだ。

深刻な事態に笑っているなんて、冗談を言っているなんて、信じられない。

そう思うだろう?

でも僕から言わせれば、深刻な事態だからこそ笑うべきなのだ。

その状況を打開するためにこそユーモアが必要なのだ。

仕事ごっこ・真剣ごっこ

新しい発想や、違う観点からの風を入れないと数字というものは伸びない。

でも、多くのマネージャーはその数字が上がらないやり方に固執して、どんどん先鋭化させていく。

部下の中からスケープゴートを選んで、責任を押し付ける。

羊たちと牧羊犬と牧場主。

仕事ごっこ。

真剣ごっこ。

もう、そういうの、やめにしませんか?

圧倒的な成果を出す為の功利的なY理論を

僕はそんな風に考えながら、部下に好きなようにさせている。

ゲーミフィケーション、なんて言葉をわざわざ使わなくても、仕事というものは本来面白い要素を含んでいるものだ。

自分で試行錯誤したり、仮説を立てたりして、その通り物事が転がっていった時の快感

誰かではなく、自分が仕事をコントロールしているという有能感

好きなように工夫したり、失敗したりしながら、データを集めていく。

それをまたフィードバックしながら、次の螺旋階段へ進んでいく

レベルアップのファンファーレが聞こえてくる。

僕はそんな様子を見ながら、また下らないことばかり言っている。

彼らが目の前のものから離れられるように、固執や妄執から解き放たれられるように、脳をドライブさせていけるように、変なことばかり言っている。

全ては成果の為だ。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

本文内にも書いてありますが、「圧倒的な」成果を出す為には性善説に基づいたマネジメントが必要です。

明日は今日の延長線上にはありません

そのような非線形な世界に向かうには破壊的イノベーションが不可欠です。

僕が今一つ解せないのは、Y理論が理想論と同じような文脈で使わがちであることです。

このブログを読んでくださっている人であればわかると思いますが、僕は生粋の成果主義者です。

そしてそのような成果至上主義者成果を出す為には(功利的な)性善説が有効だと言っているのに、なぜかそれが上手く伝わりません。

僕の方がX理論の実践者より冷たく厳しいと思うのですが、どうやらその感覚は多くの人にはわからないようです。

ただの青臭い話ではなく、圧倒的な成果を出す為の性善説。

それをこれからも僕は続けていこうと思います。

仲間になって頂けたら幸いです。