360度評価について僕が思うこと

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360度評価は有効なのか?

僕が働いている会社では360度評価という評価方法がある。

これはマネージャー以上に適用され、上位者だけでなく同僚も下位者も評価を行う(まさに360度から評価を行う)ものだ。

僕の場合は評価者でもあり被評価者でもある。

結論から言うと、「360度評価というのは日本企業(社会)においてはあまり有効ではないのではないか」と感じている。

それについて今日は書いてみる。

360度評価は何のため?

まず前提として、僕自身の360度評価は比較的良好である、ということを言っておく。

フィードバックの書類には被評価者全体の平均値も記載されているのだけれど、その数字に比べて総じて高いものとなっている(もちろん平均値と比べることに何の意味があるのかとは思うが…)。

フリーコメント欄についても、特に気になるようなものはない(というか、指摘されるような欠点は僕自身よくわかっている)。

それでも、と僕は思う。

これは何のためにやっているのだろうか、と。

上司への不満を表明する手段

僕自身が上司を評価する立場であった時もそうであったが、360度評価というものを上司への不満を表明する数少ない手段、と捉えている社員がとても多いような気がする。

実際のところ僕自身にもそういう節がある。

日本企業において評価というのは上司が部下になすという一方通行のもので、部下から上司を評価する手段はない(もしくはとても少ない)。

どんなに横暴な上司であっても、普段はひたすらそれに耐えるしかない。

その積もりに積もった鬱憤を360度に反映させることで晴らす

それが360度評価というものだ。

本当にヤバい人であっても指導が行われるわけでもない

一方で、そこに不満を表明したところで、その上司の行動が変わる訳でもないし、その上司が異動することもない。

また同じような日常が繰り返される。

これは本当にクソみたいな上司であっても同様だ。

360度評価によらずとも、明らかに行き過ぎている上司というのはすぐにわかるのに、それに対しての指導が為されることはない。

そのままのパワハラを続ける。

(というか、僕自身の経験では上司がヤバい人であればあるほど、360度評価についても逆恨みを恐れて手加減をしがちであると思う)

まずこれが第1の疑問だ(評価者として)。

ネガティブなことしか書かれない

次は評価される側としての疑問である。

それはネガティブなことしか書かれないということだ。

先程書いたことと重複するが、上司というのは「悪い奴」で、それを打ち倒す、評価を下げる、ことが360度評価であるというように運用されているので、基本的にはマイナス面しか書かれない。

ここで疑問を提起したいのだけれど、欠点がない人物なんているのだろうか?

というか、欠点のない人物というのは長所もないのではないか?

僕はそんな風に考えている。

短所は長所の裏返しでもある

物は言いようで、「話を聞かない」というのは「自分の意見がある」ということだし、「優柔不断だ」というのは「人の意見をよく聞く」ということに置き換えられる。

そして仮にそれを全部クリアしたとしても、また違う不満が表明されるだけなのだ。

例えば、「話を聞かない」と指摘されたマネージャーが「じゃあ今度は部下の話をよく聞こう」と改心して、実際に話を聞くようになったとする。

でも次回のフィードバックには「決断力がない」なんて書かれたりするのだ。

いったいどうすればいいのだ?

というか、出口なんてないのだ。

それはただの憂さ晴らしの一形態でしかないのだから。

ネットいじめと匿名性

もっと言うと、日本社会においてそれは「ネットいじめ」のような様相を帯びる。

匿名性を盾に、集団で逆パワハラみたいなことが行われたりする。

もちろん、匿名だからこそ本音が表明される、という利点もあるだろう。

でも、ネットいじめの議論においてもそうだけど、匿名でなければ本音が言えない、というのは、そもそもの制度設計が間違っているのではないか、と僕は思う。

実名で意見できないということこそを問題視すべきでは?

それが社会的・文化的な背景によるものであることは重々承知している。

日本においては、上司に意見するということは批判と同義であり、レジスタンス的に地下で活動するしかない、というような風潮も理解できる。

上司と部下が対等な関係で対話するなんてことはありえない、それが日本においてはデフォルトだ。

でも、それがそもそもおかしいのではないか?

実名で批判すると仕返しにあう、ということ自体がおかしいのではないか?

陰湿ないじめとの親和性

360度評価を有効に機能させる為には、欧米のようにある程度本音ベースでの会話が社会的に容認されることが必要であると僕は思っている。

もちろん欧米においても上司部下という関係性において全てが全て本音であることはないだろう。

それでも日本社会よりはその範囲が広いはずだ。

日本は未だに封建制のようなものを引きずっていて、そもそもの対話というのが成り立ちづらい。

結果として、非難は地下に潜り、陰湿なものになる。

教師へのいじめもそのような風潮の一形態なのだと思う。

建前の世界で愚痴ばかり言うのは生産的ではない

虐げられていた弱者が強者を打ち倒す、という物語にカタルシスを覚えるのが僕たちの民族的特徴なのだ、きっと。

悪代官や意地の悪い地頭に対して普段は従っているのに、限界を超えると一揆を起こし、成敗する、みたいな話を僕たちは好む。

それは否定しないけれど、普段からもう少し対話をすればいいのにな、と僕は思う。

上司の側も自分の360度評価を気にして言いたいことが言えなくなり、部下は部下で普段は押し黙っている。

双方が建前の世界で仕事をし続ける。

それで生産性なんて上がるはずがない。

やるなら全員で

僕はある程度実名での評価が必要であると思っているし、部下自身も被評価者として同僚などから評価されるべきであると思っている。

もちろんそれをやると、忖度まみれになって機能しなくなる懸念もあるだろう。

でも実名で意見を言えない人の評価を採用する(そしてその人の方が社内的にどうしようもない人であることすらある)方がマイナス面が大きいような気がしている。

口を開けて待っていよう

取り留めのない話になってしまったけれど、こういう面においても本音ベースでの話がもっと普通にできるようになればいいのにな、そうしなければいけないよな、と僕は考えている。

結局のところ僕たちは僕たち自身で社会を生きづらいものにしてしまっているのだ。

職場では言いたいことも言わず、居酒屋で愚痴ばかり言っている。

そんな未成熟な社会

いつまでも子供のまま

誰かが素晴らしいものを提供してくれるのを口を開けてただ待っている。

自分達でどうにかするのではなく、お上が与えてくれると僕らはまだ信じ続けている。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

本文内ではうまく書けませんでしたが、360度評価というのは「会社を良くするため」にやっているはずなのに、本当のところはあまり機能していないのではないか、と僕は感じています。

もちろん人事評価というものに完全なものなんてないでしょう。

ただ、もう少し試行錯誤があってもいいのではないか、そんな風に思います。

例えば、ある社員の意見が信頼性があるものかどうかを測る尺度として、その人自身の360度を参考にする、その数値を基に加重平均してみる、とかもう少しやりようはありそうな気がします。

何というか、(人間性が)良い部下が多いチームにいれば、自ずとマネージャーの評価も良くなる、そうでない場合は逆、というのはフェアではないように思えます。

そんなことを言いながら、一方で、他人の評価というのは本当にどうしようもないものだな、とも僕は思っています。

程々に聞き流しながら、ひたむきにいい仕事をしていきましょう。