コミュニケーションって表面上上手くやることではないよね?
みんな対立を恐れ、直接話をしなくなった
さて。
今日言いたいのはタイトルの通りのことである。
「コミュニケーション能力」ということがビジネスの世界では当たり前のように言われるようになって、それが具備されているに越したことはないという論調が一般的だけれど、その内容についてはもう少し吟味すべきなのではないかと僕は考えている。
というのも、「表面的に感じ良く振舞うこと」については、(特に若手を中心に)上手に出来る人が多い(多くなった)からである。
でも、本当に大事なことは、意見の相違があったとしても「中を取れること」「落としどころを探れること」であると僕は考えている。
ただ、それが出来る人は殆どいない。
それが今日のテーマに繋がっていく。
以前に比べると、「直接話をする人」が大幅に減ったように僕は感じている。
何か問題があるとして、それは原則的に当人同士でまず話すべきだと僕は考えているのだけれど、誰かしらを間に入れないと話ができない人たち。
それってどうなのだろうか?
今日はそんなことを話していこうと思っている。
それでは始めていこう。
コミュニケーションが下手になった
「人が集まれば対立が生まれる」
それは世の常である。
また、対立とまでは行かなくても、齟齬のようなものはどうしたって生じてしまう。
それを埋めるのが、コミュニケーションである。
でも、これが以前に比べると下手になったように僕は感じている。
熟成するまで放置するなよ
いや、これは表面的には上手くいっているのだ。
昔のように職場で怒声が飛び交うなんてことはないし、皆「うふふおほほ」と穏やかに働いているように見えるから。
ただ、では色々な問題が解決されているかというとそんなことはない。
地下に潜り、熟成され、腐臭を発するようになっているだけである。
出来るだけ早い段階で話をしておけば大したことがないのに、なぜかそれを口に出せず、放置しておく行為。
でも、それを認めたり許したりしたわけではなく、ある時点から急にそのことを持ち出し、烈火のごとく怒りだすようなあの流れ。
僕にはそれがよくわからない。
「もっと早く話をしておけばよくね?」
それが僕が思うことである。
異論童貞ばかり
これは「上手に反論を言う」とか「異論を唱える」経験がない人が増えていることが原因なのではないかと考えている。
上記したように、人が集まれば、そこに意見の対立や齟齬が生じるのは当たり前の話である。
みなそれぞれ考え方や価値観が違うから。
だから話をする必要があるのだ。
でも、「人と違うことを言う」であるとか「流れに逆らう」ということに皆慣れていない。
「同調する」とか「忖度する」とか、そういうことには長けているのだけれど、それ以外はからっきしダメ。
それってコミュニケーションではないよね?
僕が思うのはそんなことである。
話を合わせるなんて簡単
もちろん、これは「人と違うことを言って空気を悪くする」ことを良しとしている訳ではない。
「仮に人と違うことを言ったとしても、然るべき場所に着地できる」ことが大事であり、そのような能力をコミュニケーション能力と呼ぶべきなのだ。
非常に言い方は悪いが、表面上上手くやることであれば誰だってできる(というか、これが出来なければどのような職種であれ、ハードモードでのプレイになるだろう)。
ただ、一歩踏み込んでも上手くやれる人はそんなに多くない(というか殆どいない)。
そこに課題があるように思うのだ。
実際にやってみせるしかなくね?
では、この課題をクリアする為にはどうしたらいいのだろうか?
本来的には教育段階(学生時代)から、「人に異を唱える」とか「空気が悪くなることに慣れる」とかそのような経験が必要だろう。
でも、昨今の流れは、(SNSの興隆等の影響もあるのか)これとは逆行しているようにも思える。
とすると、社会人になるまで、そのような経験を持たずに来た人たちが自分たちの部下となる訳だ。
これはなかなかの難題である。
さて。
僕が考えるこの課題のクリア方法は、「実際にやってみせる」ということである。
それはその当事者相手でも構わないし、別の第三者相手でも構わない。
同調せずとも、良好な関係を築けることを実際に見せていくこと。
それが大事なのかなと考えている。
ザラザラしている方が面白くね?
また、これはやや感覚的な表現にはなるけれど、「人とちょっと違うことを敢えて言うことで議論が深まる」「そこに面白さが生まれる」ということも併せて示すことが重要なのかなとも考えている。
何らかの違和感。
ちょっとした出っ張り。
ツルっとした表面では生まれないような、議論の展開。
そういうものを自分が示していくことで、彼(彼女)らの殻を破っていく。
未知を共に作っていこう
重要なことはオープンであることだ。
そして、異論を面白がることである。
この現代世界に「正解」はない。
あるのは正解に辿り着く為の「過程」だ。
そして、過程を面白くする為には「異論」や「暴論」が欠かせない。
それらを包摂していくこと。
ChatGPTや生成AIでは味わえないような「未知」を共に作っていくこと。
それがコミュニケーションである。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
面白さを尊ぶこと。
何だか最近はそれがめっきり減ったように感じています。
正しさばかり主張する人たち。
それに同調する人たち。
一見穏やかな会議室。
つまんねー。
くだらねー。
僕が思うのはそんなことです。
正しさよりも面白さを。
それを生む為の異論を。
上手にコミュニケーションしていきましょう。