正しいことしか言えない人たち

「正しさ」というバロメーター

自分が所属している組織が健康か不健康かを測る尺度の1つとして、「正しくないこと」を言うことが許容されるかどうか、がある。

あなたがいる組織に、正しいことを言わなければならないという雰囲気が漂っているのであれば、それは健康とは言えない。

いや、少なくともそれを意識することができるのであれば、まだマシなのかもしれない。

本当に不健康な組織は意識すらできなくなるからだ。

息を吐くように、無意識に「正しいこと」を言う。

それが普通になる。

そしてそれが危険を知らせるアラームであることに誰も気づいていない。

今日はそんな話をする。

誰も間違えない伝言ゲーム

「正しいこと」には論理的破綻がない。

そして属人性がない。

誰が言ったとしても、同じ意味を帯びて反響する。

エコーのように、同じ言葉が同じ意味を帯びて組織内に広がっていく。

加算も減算もない。

当然乗算も除算もない。

誰も間違えない伝言ゲーム。

とても素晴らしい。

だって誰も「間違えない」のだから。

そうだろう?

いや、そうじゃないのだ。

誰も間違えないことが問題なのだ。

「間違えないことが問題?」

もう少し詳しく書いていこう。

工学的な世界観と生物学的な世界観

工学的な世界観生物学的な世界観がある、と僕は思っている。

工学的な世界観は、線形な世界で、1+1が2になる世界。

そしてそれが続いていくことが望ましいとされる世界だ。

生物学的な世界観は、非線形な世界で、1+1が必ずしも2にならない世界。

そして2にならないことが望ましいとされる世界だ。

遺伝子における突然変異のように、入力と出力が異なる世界

訳が分からないものが生まれていく世界。

僕が重要だと思うのは、もちろん後者だ。

問題が何かすらわからない時代で

答えがある世界(昭和時代)においては、工学的な世界観が「正解」だった。

最短距離を最短時間で駆け抜けることが正しかった。

でも現代(令和時代)はそうじゃない

答えはない。

そして何が問題かすらわからない。

暗中模索。七転八倒。

そこには「正しいこと」なんてない

伝言ゲームは途中で訳が分からない言葉が混ざるから面白いのだ。

誰も予想されない方向に話が展開していくからこそ、それをやる意味があるのだ。

エラーに対する考え方の違い

工学的な世界においては、エラーというものはできるだけ排除すべきである。

でも生物学的な世界では、エラーは歓迎すべきものに変わる。

もちろんそこにおける偏差は大きくなってしまう。

いや、外れ値が生じてしまう。

でも、それこそが大事なのだ。

正しさの参照点

これは僕がいつも言っている「ポジションを取る」ということと関係してくる。

ポジションを取るということは、リスクを取るということと同義で、間違う可能性を負う、ということだ。

自分自身を正しさの参照点とする。

でも「正しさ」というのはあくまでも相対的なものに過ぎない。

当然ながらたくさん間違うことになる。

でもそれでいいのだ。

一方で、正しいことしか言えない人たちは、外部に正しさの参照点を置く。

例えば、ルールだとか、社内規定だとか、常識だとか、そういうものだ。

そして間違っている人に対して「ルール違反だ」とか「社内規定違反だ」とか「常識外れだ」とか、「正しいこと」を言う。

それは確かに間違っていない。

でも何も創造しない

0が反響するだけ。

コピー&ペーストの世界観。

早くAIに代替されてしまえよ。

エラーもバグも許されないから日本社会は停滞しているのでは?

口調が荒くなってしまった。

でも、本当にそうなのだ。

それは機械的世界と親和性が高い。

どこにも行きつかない。

正しいから。

どこまでも正しいから。

組織が高度化していくと、属人性は希薄化していく。

個人は遠景になっていく。

同じ顔をした同じ人間が、歯車として組織を動かしていく。

それはとても効率的である。

昨日と同じことを、今日も、明日も繰り返していく。

エラーもバグもない静謐で清浄な世界。

そこで交わされる「正しい」言葉たち。

何も悪いことじゃない。

何も間違っちゃいない。

ただの価値観の相違でしかない?

そうなのかもしれない。

でもさ、と僕は思うのだ。

だからこそ日本社会は停滞したままなのではないか? と。

悪平等や内側の論理を超えて

大人の余裕というか、社会的成熟度というか、エラーすらも笑ってしまう、包摂してしまう、ことが不確実な世界には必要なのだ、と僕は考えている。

エラーもバグも飲み込んで、それすらも面白がって、新しいものとして取り込んでいく。

そうやって進化していく。

もちろんその中には淘汰されるものも出てくるはずだ。

でもそれはある種必要な犠牲なのだと思う。

悪平等を超えて、べき論を超えて。

間違え探しや、重箱の隅のつつき合いのような、内側の論理を超えて。

「正しいことを吸って、正しいことを吐く」のをやめる

組織というものは同一性を求める慣性の法則のようなものを内在している。

でもそれに身を任せすぎていると、「尖り」がなくなってしまう。

そして「正しいこと」しか言えなくなっていく。

「正しいこと」を吸って、「正しいこと」吐いて、いつしか萎れてしまう。

干からびてしまう。

そして干からびていない者を排斥しようとする

その純化度によって評価を行うようになる。

たぶん組織というのはそういうものなのだ。

その中で、「正しくないこと」を言うのは勇気がいる。

「空気を読まないこと」はリスクを伴う。

それでも、と僕は思う。

それこそが、次の飯のタネになる、と。

変なリズムや転調が次のグルーヴを生み出す、と。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

正論は最強のツールです。

特に現代のようなSNS時代においては、ちょっとでも間違えたことを言うと徹底的に叩かれるので、そのような態度を取りたくなるという気持ちもわからないでもありません。

揚げ足を取られて、足元をすくわれてしまうから。

ハラスメントだと糾弾されてしまうから。

でもあまりにもそれが行き過ぎてしまうと、社会というのはとても息苦しくなります。

そしてとてもつまらなくなります。

除菌をし過ぎると抵抗力が落ちるように、あまりにも清潔な環境というのは生命力を奪ってしまいます。

酸いも甘いも毒皿も全て飲み込んで、異形なものに進化していくこと、それこそが本来の意味での多様性であり、強さであると僕は考えているのですが、どうやら社会的には少数派であるようです。

そんな環境の中でできることは限られていますが、少なくとも若手の暴論を否定することなく、面白がりながらこれからも仕事をしていこうと思っています。

ご賛同頂けたら幸いです。