センスレス・マネージャーにならないために
日本が上向きだった時代を知っているかどうか
おじさんマネージャー達の仕事ぶりを見ていると、マネジメントには(も)センスは必要だよな、と思うことが多い。
もちろん僕もそのおじさんに含まれるのだろうし、自分にセンスがあるということを声高に主張したい、というわけではない。
ただ、多少はマシなのかな、とは思っている。
どこで線引きをするのが適切なのかわからないけれど、僕は「日本が上向きだった時代を知っているかどうか」というところで、社会人は2つに分けられるような気がしている。
ここで言うおじさんマネージャーというのは、日本が上向きだった時代を知っている、そしてその時の成功体験に郷愁を感じている、というようなニュアンスで捉えて頂けると何となく僕が言わんとしていることが伝わるのではないか、と思っている。
そしてそういうマネージャー達にセンスを感じることがない、ということを付け加えておく。
世代批判みたいな話になりそうだけれど、そんな感じで今日は話してみようと思う。
羞恥心を持って自己を客観視できるか
センス、とは何を指す言葉なのか、という議論はとても難しい。
それを言語化するのはとても困難な作業だ。
ただ、凄く簡略化した概念として、僕はセンスを「羞恥」に近いものとして捉えている。
自身が羞恥心(恥じらい)を感じられるかどうかという属性的なものもそうだし、それを受けた他者が羞恥を感じるかどうかというラインを見極められるか、みたいな感じで、僕は(ここでは)センスという言葉を定義して話を進めていこうと思う。
言い換えるなら、自己を客観視できるか、をセンスの一要件とする。
対極的な言葉としては、厚顔無恥がある。
うまく伝わっているか自信がないけれど、次へ進んでいこう。
周囲の状況との適切な調整ができない時、センスレス・マネージャーは生まれる
センスレス・マネージャーだな、と僕が思うのは、チームの状況と自分のポリシーの適切な調整ができない状態にあるのに、それに気づいていない時だ。
「調整つまみ」みたいなものが壊れている(もしくは元々ついていない)状態。
その微調整ができない時、人はセンスレス・マネージャーになる。
そしてチームは大きな停滞に繋がっていく。
でも本人は気付いていない。
そんな感じだ。
センサーが壊れていないか
センサー、という言葉がある。
そのセンサーが壊れた時、感度が悪い時、人はセンスレス・マネージャーになる。
そしてそのセンサーは、自己への疑いみたいなものがなければ、有効に機能しないのだ。
自己反省や、自己客観視や、自己卑下みたいなもの、それらを持ち続けることで、マネジメントは動的になるし、固定化しない。
時代は変わるし、メンバーも変わる。
若い世代がその大半を占めていく。
そんな状況でも、センスレス・マネージャーは自分のやり方を変えられない。
自分のやり方は絶対的に正しいと思っている。
センサーの感度を落とさない為に
自分のマネジメント手法に自信を持っていることは悪いことではない。
でもそれに固執するとき、マネジメントは切れ味を失う。
年齢を重ねれば、確かにセンサーの感度は落ちるのかもしれない。
でも、羞恥を感じることができれば、それを幾らかは防ぐことができるのではないか、と僕は考えている。
羞恥を感じられるかどうか、ということ自体が属人的なものであって、感じられないという状態は変えられない、それをセンスと呼ぶ、という同語反復的なことを言っているだけなのかもしれないけれど、僕はそんな風に考えながらマネジメントを行っている。
チームは生き物である
以前にも書いたことでもあるけれど、僕はチームに合わせたマネジメントを行う。
自分のやりたい手法はもちろんあるのだけれど、それよりはメンバーの個性をどのように活かすか、みたいなものに焦点を当てることが多い。
そして、メンバーは(当たり前であるが)生きているので、日々状況が変化していく。
更に、メンバーが入れ替わったりもする。
そうやってチームは流動体になっている。
それをそのままメンテナンスしていくことで、チームは変化していくし、時代に適合していく。
変化しないことは素晴らしいことではない
近い概念として、アートをビジネスに取り込む、という近年の潮流があると僕は思っている。
正解がない現代のビジネス環境においては、個々の感性みたいなものがとても重要になる。
チームメンバーの個々の感性の延長線上に顧客がいて、そのフィードバックとしてのマネジメントがある。
良い製品だから売れるだろう、というような考え方が未だに残存しているから、日本企業は衰退傾向にあるのだろうし、尊大とは言わないまでも、そのような父権的イメージが現代には合わないのだろう。
父は偉大であって、変化しないことが素晴らしい、自信を持っているべきだ、みたいな考え方はもう時代錯誤ですらある。
そしてその考え方の背景に、それを率いているマネージャーたちがいる。
センスレス・マネージャーたちがいる。
マネジメントにもアップデートを
羞恥というセンサーが壊れたマネージャーたちが、まだセンサーの壊れていないメンバーたちを教化して、ダメにしていく。
そのようなループによって、ダサい企業が更にダサくなっていく。
大事なのはアップデートだ。
時代と共に、ソフトウェアがアップデートされるように、マネジメントも変化し続けるべきだ。
沈みゆく日本において、僕もマネージャーの端くれとして、マネジメントをアップデートしていくことで、何とかその潮流に抗っていこうと思う。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
センスとは羞恥心である、という言説は出会ったことがないので、頓珍漢なことを言っているのかもしませんが、個人的には瞬発力で書いた割には悪くないのではないかと思っています。
それは羞恥というのは、自己懐疑という概念を含んでいて、それがなければ自分が変わっていくことはない、と思うからです。
以前にも書いたことですが、僕は志向性(最終的に何者かになれなくても、何者かになりたいと志向すること)を大事にしています。
その志向性には、今現在の自分に対する恥ずかしさ、というものが含まれます。
自分を客観的に見ることで、生身の自分が露見されて、そうじゃないもっと素晴らしい自分になりたい、という気持ちが生まれてきます。
きっとそういう志向性の中にセンスというものは宿るのでしょう。
また変な話になってしまいました。
懲りずにお付き合い頂けたら幸いです。