フリをするたち(ばかり)

Photo by Kyle Head on Unsplash

演技をしている自分が本来の自分を乗っ取ってしまう

僕はポーズが苦手だ。

演技も下手である。

何かをやっているように見せること、それもとても上手にやっているように演じること、それが僕にはできない。

そういう意味では、僕は正直な人間なのであると思う。

自分に嘘をつくことができない。

何というか、欺瞞であると思ってしまうのだ。

もちろん、組織上、立場上、そのように演じることが全くないとは言い切れない。

オフィシャルな立場を表明しなければならない、ということは当然にある。

ただ、「そちらの自分」の方が大きくなって、「本来の自分」を乗っ取ってしまっているとしたら、それは問題である、と僕は思う。

大問題と言ってもいいかもしれない。

今日はそんな話をしていく。

頭の良い人達

日々働いていて思うのが、「頭の良い人というのはフリがうまいのだな」ということだ。

「それっぽく」仕事をするのがとても上手である。

僕からしたら、それは明らかに無駄な作業であったり、労力のかけすぎであったりするようなことであったとしても、彼らはそんな様子を微塵も見せることはない。

それが人生における重大イベントであるかのように振舞う。

そしてその痕跡を残さない

エクセレントだ。

ブラボーでもある。

ただ、同時にこうも思う。

ああはなりたくないな、と。

謎仕事の氾濫

日本の生産性向上を真に目指していくのであれば、こういった「フリ」仕事をやめることが本当に必要であると思う。

もちろん諸外国においても、「見せかけ」「張りぼて」の人はたくさんいるだろう。

でも、僕たち日本人はそれに加えて、「配慮」や「遠慮」や「空気を読む」みたいなことをやってしまう。

すると、「フリ」仕事が二乗三乗になって膨れ上がってしまう。

細部に拘り過ぎて、結局何をやろうとしていたのかがわからなくなっている、という事態は僕からすればコントに過ぎないのだけれど、彼らは大真面目にそれをやっていたりする。

そしてそれを見ている人達も、「あれはあの人の仕事だから」と過剰な配慮をしながら、遠巻きに見ていたりする。

かくして、誰の為にもならない、どこに行きつくわけでもない、「謎の仕事」がそれぞれバラバラに行なわれ続けることになる。

僕たちはいつまでも分かり合えない

たちが悪いのは、なまじっか優秀であるので、その「フリ」仕事をどんどん「極めて」いってしまうことだ。

ガウディもびっくりのサグラダ・ファミリアが出来上がっていく。

それを間抜けな顔をした僕が指摘すると、物凄い剣幕で反論してきたりする。

まるで話が通じない

きっと相手もそう思っていることだろう。

不可視なものを可視化する

僕が成果ベースでの評価というものを過剰なまでに主張しているのは、こういう「謎の仕事」を計量化する必要があると考えているからだ。

もちろんそれが長期的な成果に資するということはあるだろう。

僕にはわからない深遠な思想がそこにはきっとあるのだろう。

ただ、企業というものは、あるターム内での実績を求められるのも事実である。

それがもし長期的な成果に貢献するというのであれば、それをきちんと示す必要があると思う。

アンタッチャブルなものをアンタッチャブルなままにしない。

不可視なものを可視化する。

沈み続ける日本

何もその仕事をやっている人が無能だ、と言っているわけではないのだ。

あくまでもその仕事が無駄である、と主張しているに過ぎない。

優秀な人はもっと建設的な仕事に勤しむべきなのだ。

それがひいては集団の為にもなる。

僕からしたらとてもイージーな話なのに、こういうことを言うと「生意気だ!」とか「批判的だ!」とか言われてしまうのが、ずっと不思議なままである。

そうやって、ムラ社会を守りながら、僕たち日本人は沈んでいくのだろうか?

「こうなったらいいな」という未来は起きない

そういう人達だけが沈んでいくなら全然構わないけれど、そうなった時にしがみついてくるのだけはやめてほしい。

僕はそうならないように、現在の小さな痛みを選ぶ。

より大きな痛みを避けるために。

想定外、という言葉は使わない。

全ては想定の範囲内だ。

僕は未来を想像し、楽観論を語ることはしない。

「こうなったらいいな」という未来は、残念ながら起きない。

あるのは過酷な現実だけだ。

それにただじっと対峙するだけだ。

会社を世界一憎んでいる民族である僕たち

人間は暇になれば、それを何かで埋めようとする。

残念ながら、現代においてはそのようなある種の「空白の仕事(クソ仕事)」がたくさんある。

そもそもの問題としては、僕たちが熱中して、時間すら忘れてしまうような仕事がない、ということなのかもしれない。

きっと本当は彼らだって、自分の仕事が無駄であることには気づいているのだ。

でも、それを認めてしまうと自分の存在価値(過去も現在も未来も)がなくなってしまうから、それを無理やりにでも価値のあるものと見せようとしているに過ぎないのだろう。

そうやって、僕らは皆無駄な仕事をさも意味がある仕事であるかのように演じていく。

「日本人は働き過ぎだ」という幻想と、その中身の空虚さ。

だからこそ僕らは会社を、仕事を、世界一憎んでいる民族なのかもしれない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

本当のところはわからないですが、外国のイノベーティブな企業は頭の良い人が頭の良い仕事をやっているような気がしています。

一方、日本企業は頭の良い人が頭の悪い仕事をしている。

それもすごく熱心に。

このような「有能さの無駄遣い」をやめるだけで、僕たちはもっと違う場所に行けるような気がしています。

そこに必要なのはプロセスを(過剰に)評価するのではなく、成果を評価する仕組みだと思います。

「真っ当な成果主義」というのは難しいのかもしれませんが、少しでもそちら側に目盛りを傾けることができたら、もう少し仕事は楽しくなるのではないかと思っています。

ご賛同頂けたら幸いです。

組織論

次の記事

無知の無知