リスクヘッジ型マネジメント?
全てを報告することで自分の身を守ることはできるけれど…
マイクロマネジメントにうんざりしている。
でもこれが昨今の主流派なのかもしれないなとも思っている。
「少しでもリスクの芽があったら、それを逐一報告しろ!」というようなやり方は、確かにリスクヘッジとしては有効だろう。
何かコトが起こった時に、「すぐに報告しろと言っただろう!」と言うことで、「そんな話オレは聞いてないぞ!」と言うことで、その責任を回避することができるからだ。
それが常態化すると、責任逃れを防ぐためにチームは本当に小さな事象まで逐一報告するようになっていく。
それこそ箸の上げ下ろしまで。
まだ事象が小さい段階で、先手を打っておくということは確かにリスク管理として有効な方法ではある。
でもそれが行き過ぎるとチームは小さく纏まってしまう。
今日はそんな話をしていく。
「父と子」「教師と生徒」
僕はチームは大人で構成されるべきだ、と考えている。
マネージャーとメンバーの関係は対等であるべきだ、と考えている。
でもマイクロマネジメントは、これを「父と子」の関係に置き換える。
「教師と生徒」の関係に置き換える。
例えが適切かはわからないけれど、社会人というのは大人(成人)であるのだから、酒を飲んでもいいし、タバコを吸ってもいい。
恋愛をしてもいいし、セックスをしたっていい。
教師に隠れることなく、堂々とやって全く問題がない。
でも、こういうことすらも報告を求めるタイプのマネージャーがいる。
父と子の関係であれば、養育義務みたいなものがあって、確かに子供の非行について監督する責任があるだろう。
教師と生徒の関係であれば、生徒の体や将来のことを考えて、それを指摘する必要があるだろう。
ただ、マネージャーとメンバーの関係もそうすべきなのだろうか?
僕にはこれがよくわからない。
マネージャーは風紀委員ではない
価値観の違いと言われればそれまでの話なのかもしれない。
その責任を取るのはマネージャーの仕事である、ということもよくわかっている。
だからと言って、メンバーを子供扱いすることに対して、僕は違和感を覚えざるを得ない。
もちろん就業規則というものはあるだろう。
でもその範囲内であれば、自由に行動して構わない、と僕は考えている。
僕は風紀委員ではないし、生徒指導教官でもないのだ。
各々が一定のルールの範囲内で好きにやればいい。
それ以上のことを求める必要はない。
ジョージ・オーウェル型マネジメント
彼らは「オレが責任を取る」と言いながら、全てを把握しておきたいだけなのだと思う。
自分が全てをハンドリングしたいだけなのだと思う。
そしてその理由は、自分が偉くなりたいから、その火の粉を浴びないようにはどうしたらよいか、ということを最優先に考えているだけなのだ。
善人を気取るなよ。
結局は自分を守りたいだけだろう?
ビックブラザー的世界観。
パノプティコン的価値観。
僕らはいつだって監視されている。
そしてゲシュタポ達が僕らの一挙手一投足を密告している。
誰も信用できない。
メンバー間の相互不信は、父への依存を強めていく。
そうやってマネージャーは求心力を高めていく。
全体主義万歳。
ぱちぱちぱち。
マジかよ。
反吐が出る。
リスクとリスクヘッジ
SNSの普及は企業のリスクを高めてしまった。
それをヘッジする為に、社員の行動を監視しておきたいという気持ちはわからないでもない。
とんでもない社員は一定数存在するし、そいつらの「やらかし具合」は実際にとんでもないからだ。
すぐに炎上してしまうことも確かだし、それで企業が吹っ飛んでしまうことだってある。
でもさ、と僕は思うのだ。
それでいいのだろうか? と。
いつから僕らはイメージによってカネを貰うようになったのか?
僕たちはアイドルグループではないし、そのイメージによってカネを貰っている訳ではない。
酒もタバコもギャンブルも好きにすればいい。
清廉潔白ではない、ただの大人だ。
汚いことだって時には行うだろう。
法の範囲や常識の範囲を超えればそれらは罰せられるべきだとは思うが、その範囲内であれば好きにすればいい。
一億総監視社会の中で、自分達の首を絞めて、更に生きにくくする必要はない。
リスクを取らないとリターンはない
上手く言えないのだけれど、何か間違いを犯した人がいる時に、その監督責任を過剰に求めすぎなのではないか、と僕は考えている。
子供であれば親が、社員であれば企業が、過剰に糾弾される。
もちろん、一定の監督責任はあるとは思う。
でも、それ以上のことは一介の大人がやっていることであって、あくまでも個人ベースで考えるべきなのではないだろうか。
一族郎党、みたいなアジア的(日本的?)価値観は、リスクテイク力を極端に減衰させる。
それをヘッジする為に、社員をどんどん縛っていく。
規則をどんどん増やしていく。
ブラック校則とブラック企業の類似性
時代錯誤な校則が未だに存在している我が国では、大人ですらそれに縛られなければならないのだろうか?
僕たちは地毛すらも黒く染めて、白い下着をつけて、丸坊主で登校すべきなのだろう。
自宅と会社を往復するだけの、家畜として生きていけばいいのだろう。
それに従うことが有能さの証である?
それで自由な発想が必要だなんてのたまう?
個性がないと言う?
斬新なアイディアが必要だと言う?
沈みゆく船。
いや、もう沈んでいるのだ。
そうやって既に30年が過ぎてしまった。
「なぜ?」と問うことは悪いことではない。
疑問を持つことは反抗ではない。
僕は違う道を行くよ。
それではまた。
いい仕事をしましょう。
あとがき
僕は現在が端境期だったらいいな、と思っています。
旧態依然としたやり方に終止符を打つ、旧世代が一掃される、その過渡期であって欲しい、と真に願っています。
超高齢化社会である日本はこれからも若者たちが搾取されていくのでしょうか?
出る杭は打たれ続けていくのでしょうか?
僕はもうおじさんと呼ばれるような年代に足を踏み入れてしまっていますが、少なくとも若い世代のエネルギーを削がないような環境を作りたいと思いながらマネジメントをしています。
賛同頂けたら幸いです。