メンヘラ部下の使い方

メンヘラ検定合格社員の増加傾向

キャッチーなので「メンヘラ」と銘打ったけれど、ここで言う「メンヘラ」というのは本当にメンタルヘルスがヤバい人ではなくて、社会人として一応は会社に来ることはできるけれど、完全に仕事を任せるにはだいぶ怪しい人のことを指す(ことにする)。

時代の変化のせいかもしれないけれど、こういう人達が増えてきたように思う。

特に新入社員として入ってくる場合には、その人がどのようなメンタルの持ち主であるのか、ということは知り過ぎてもしすぎることはない。

「私は悪くありません」

「教えてもらっていません」

「他の人はどうなんですか?」

という言葉が出てきたら、まずは第一チェックポイントはクリアだ。

そして、すぐにパニックになってしまったり、泣き出してしまったり、自分のことを過剰に責めたりし出したら、メンヘラ検定合格である。

今回のテーマの回収を早めにすると、それは「相手にしない」ということになる。

では、進めていこう。

本来採用すべきでなかった人材をどうやって使うか?

時代観・社会観にもよるのだろうけれど、僕はこの類の人達というのは、「自分が不遇であれば周りが何とかしてくれる(もしくはそうすべきだ)」であるとか「自分が不遇であるのは周りに責任がある」というような考え方が、現代日本では有効な戦略であるから増えてきているのではないか、と考えている。

乳幼児のように、泣き叫べば何とかしてくれる、というような世界観を持っているのだと思う(意識的ではないにせよ)。

僕は無慈悲なのでこれに与することはない。

はっきり言って、こちらにとってのコストパフォーマンスが悪すぎるからだ。

こういう手合いはまず成長しない。

むしろ地位を与えると、変に勘違いを起こして、周囲への悪影響を与え出す。

本来的には「採用すべきではなかった人材」であるが、残念ながら僕には採用権も減給権も解雇権もないので、継続して使わざるを得ない。

ではどうするか?

「その他」扱いをする、というのが結論となる。

指導はパワハラと捉えられる

厳しい言い方になるが、真正面からぶつかってもこちらには得るものはないのだ。

例えば熱心に指導しようとしたことだってある(僕だって人の心を持っていた時はあったのだ)。

でも、彼ら(彼女ら)にとって、それは指導ではなく、パワハラと捉えられる。

自分の意に沿わないことはハラスメントとなる。

自分のキャパシティを超えたものは無理難題となり、それを強制する上司という絵面になる。

割に合わない。

間違ってはいないけれど…

例を挙げよう。

定時に会社に来る、というのは就業規則にも定められていることで、これを破るものは流石にいない。

でも、仕事には事前準備というものがあって、課のメンバーが早めに来て全員の為に準備をするというのは日常的に起こる。

新人がそれをすべきだ、というのは流石に時代錯誤だと思うので、僕は全員でやればいい、という考え方を持っているのだけれど、メンヘラ社員はそれに参加することはない。

すると、他の社員から段々と不満が起こってくる。

「なぜあいつはやらないのか?」と。

「マネージャーはそれを指導すべきだ」と。

僕はそのメンヘラ社員を呼んで、「みんな準備をしているし、もう少し早く来る(例えば15分)ことはできないかな?」と言う(もちろん、時間外手当をつけてもらって全然構わないことを添えて)。

すると彼はこう答える。

「いやあ、僕は朝が弱くて起きられないんですよ」

彼の言っていることはたぶん間違っていない

もしかしたら、健康面に問題があって、実際にそうできないのかもしれない。

そしてそれを僕が強要すると、ハラスメントになるだろう。

就業規則は守っているのだし。

だから僕はこういう時は、「その他」として扱う

実際に口に出すことはないけれど、その人のキャリアを真剣に考えることはなくなる。

正しさはわかる。間違ってもいない。でも。

もちろん、日本社会的な同調主義や村八分的な概念は排除すべきだ。

そしてここで僕が言っていることもその同調圧力に含まれているのかもしれない。

でもさ、と僕は思う。

社会で働くということはそのような不合理も時に受け入れなければならないということなのではないか、と。

同調圧力とチームプレーの境界線は難しくて、「個人個人が就業規則の範囲内で勝手に働けばいいんじゃない?」という考え方に僕は基本的には賛成だ。

でも、そこにはやはり限度や程度があると思う。

彼にとってはこれがその閾値を超えている事象なのかもしれない。

それならそれで構わない。

こちらもそのように扱うだけだ。

そちらはそちらの、こちらはこちらの

こうやって文字にして書くと、とても辛辣な文章になってしまうように思う。

でも、こちらも身を守る為には仕方ないのだ。

何かと言えば、声の大きい人が勝つような社会において、「ハラスメントだ!」と言われてまで、その社員を改善しよう、矯正(強制?)しようというような思いは僕にはない。

僕はあくまでも仕事としてマネージャーをやっているだけで、その社員が成長しようがしまいが関係ない。

もちろんアドバイスはするけれど、それを活かすも殺すも彼の人生であり、彼の価値観である。

それ以上のことは僕にはわからない。

逆に言えば、そういう社員であっても成果を出していれば相応に評価もする、ということだ(ただ、残念ながらこういう社員が成果を出せたことはない。あくまでも僕の経験上という少ないサンプル数であるが)。

メンバー数が限られている状況においては、そういう社員でも上手く使わなければならないのだ。

何だか暗い話になった。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今日の話は書くかどうか迷った主題のものです。

昨今の言論環境においては、「正しさ比べ」「ポリコレ競争」みたいなものが行われていて、今回の話はそういう意味において「適切ではない主題」であると自分でも思う中で、それでも僕と同じような立場のマネージャー達が日常的に遭遇しているであろうことを書いたら少しは彼らの役に立つのではないか、という思考の変遷を経てここに至ったわけです。

文章にすると硬質になってしまうので、ニュアンスが伝わりづらいのですが、職場での僕はこうしたタイプの部下であっても、いつか成長のタイミングが来るんじゃないかと思って、辛抱強く指導を続けています。

「その他」扱いという強い言葉を書きましたが、普段はそんなことも思わないくらい真剣に向き合っているつもりです。

ただ、時々、それがものすごく馬鹿らしく思えることがある。

それを文章化すると、こんな感じの鬱屈としたものになってしまうのだと思います。

もう少し言うと、部下だけでなく上司の中にも子供じみた人はたくさんいますし、そう自分が思ってしまうのはただ僕と価値観が合わないだけに過ぎない、という出口がないことを考えてしまうことも事実です。

願うべくは、誠実に仕事に向き合っている人が、変な人達によってその仕事を妨げられないことです。

賛同は難しいかもしれませんが、また読んで頂けたら幸いです。