手本になるマネージャーがいない

Photo by Tom Swinnen on Unsplash

我流のマネジメント

「この人のようなマネージャーになりたい」という人がいない。

偉そうな書き出しになってしまったけれど、この状態がずっと続いている。

物事を習得するにはロールモデルを定めて、それを模倣することから始めるのが手っ取り早いし効率的である。

そして一連の動作を習得したら、自分なりの色を出していく。

基本、のち、応用(オリジナリティ)である。

ただ、この基本となる人がいない。

いないまま、ここまで来てしまった。

そういう意味では、僕のマネジメントスタイルというのは極めて我流に近いものであるし、それが適切なのかどうなのか、ということを判断する材料を持たない、ということにもなるのかもしれない。

そしてたぶんそれは社内だけの問題ではないのだ、きっと。

今日はそんなことを話してみようと思う。

厳しい現実を直視することからリーダーシップは生まれる

この国はリーダー不在の国である。

僕はずっとそのように感じている。

ずっと、という言葉をもう少し丁寧に表現するのであれば、それは震災以後(2011年)より顕著になった、ということになるのかもしれない。

あの原発事故という明らかにコントロール不能の物事に対して、僕たちのリーダーはそれを認めることができなかった。

ここに僕はリーダーシップの欠如を感じる。

勘違いしないで欲しいのは、「コントロール不能のものをコントロールすることがリーダーの仕事である」というではなくて、「コントロール不能のものをコントロール不能であると認めることがリーダーの仕事である」、ということだ。

違いがわかるだろうか?

厳しい現実を直視すること。

そこから物事を立ち上げようとすること。

そこにリーダーシップは立ち現れるのだ。

僕はそんな風に思っている。

否認の構造

自分の会社の経営陣の言語運用と、この国のリーダー達の言語運用があまりにも似ているということに気付いてから、僕はそれがなぜなのかということを考えるようになった。

そこで見つけた共通点は「否認」というワードである。

フロイトを持ち出すまでもなく、そこには精神病理的な、自己防衛的な、臭いが漂っている。

受け入れるにはあまりにも不快である事実に対して拒否をすること。

いや、拒否というよりも、そもそもそれが存在していなかったかのように忘却すること。

そこに僕はどうしようもない虚無感を覚える。

事実=解釈の問題?

メディアを通してリフレインされるこのような立ち振る舞いは、サブリミナル効果のように僕たちの無意識下に刷り込まれていく。

リーダーはあのように振舞うべきである、と。

できるだけ自分の責任にならないように、自己利益を損なわないように振舞い続けること。

事実というのは解釈の問題であるかのように振舞うこと。

そうやって僕たちは日々を過ごしている。

自分すらも騙したまま仕事を続けるのか?

思えば、学生時代もきっとそうだったのだ。

僕たちはそのような大人をたくさん見て育ってきたのだ。

教師たちの理不尽な振る舞いを、僕たちは無意識的に真似ながら、現在マネジメントと称することを行っている。

かつての彼らは、今の僕たちだ。

できるだけ火の粉が自分に降りかかって来ないように仕事をすることがスマートなマネージャーの条件である。

不都合な事実は、そもそもそんなものが生じていないかのように振舞うことが優秀なマネージャーの条件である。

それを事実であると認めると、自分の責任だとされるから。

良心の呵責があればまだマシなほうだ。

否認、というのはもっと厄介なシロモノである。

自分すらも騙すからだ。

スイッチOFF

自分の知覚を麻痺させることで、そもそもそれを感じなくさせることで、僕たちはマネジメントを効率的に遂行する。

迷いなんて不要なのだ。

回線を切ってしまえばいいのだ。

それが適切な振る舞いなのだ。

そう、だから、僕には手本になるマネージャーがいないのだ。

タフとは? 大人とは?

僕はたくさんの梯子を外されてきた。

その時における彼らの表情は一様に虚無であった。

そもそもの事実なんて初めからなかったのだ、という表情。

オレの肩に手をかけるなよ、という表情。

それをたくさん経験してきた。

余計な正義感は不要なのだ。

それは青臭いものだと一蹴される類のものなのだ。

タフになれよ。

大人になれよ。

彼らは自分の欺瞞性を棚に上げて、そんなことをのたまう。

反吐が出る。

途方に暮れることは恥ずかしいことじゃない

僕は厳しい現実を前にして、それを認められることをタフであると呼びたいと思う。

コントロール不能のものを、コントロール不能であると認められることを大人であると呼びたいと思う。

そこから物事を始めるのだ。

途方に暮れていたっていいのだ。

どうしようか、と一緒に思い悩めばいいのだ。

僕はそこにリーダーシップの萌芽があると思っている。

呆然とすること。

立ちすくむこと。

それは何も恥ずかしいことじゃない。

シュールなコメディの俳優として

僕はそこで呆れ笑いをできるような人でありたいと思っている。

「すげえことになっちまったな」と笑顔を浮かべられるようなリーダーでありたいと思っている。

過酷な現実をシュールなコメディに転換できること。

取り敢えず、泥だらけの自分をネタにするところから始めること。

僕はそんなマネージャーでありたいと思っている。

手本などいらない。

彼らの真似などしない。

それではまた。

いい仕事をしましょう。


あとがき

今回は比較的シリアスな口ぶりになってしまいましたが、マネジメントの問題を考えていくと、どうしてもこの話題というのは避けて通れないような気がしています。

システムに内在されている「どうしようもなさ」「虚無感」「言っても無駄的な諦め」がことあるごとに顔を出してきて、その壁にぶち当たったことがある大人たちは、訳知り顔で「大人になれよ」ということを、口々に説いてきます。

たぶん彼らが正しいのでしょう。

それでも、と僕は思うのです。

少なくとも自分の身近なところはそうじゃない形にしたい、と。

国を変える、とか、会社を変える、とか、そんな大それたことではなくて、自分が属しているチームにおいては、伸び伸びと仕事ができるような環境を作りたいと思っています。

ご賛同頂けたら幸いです。